皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

双六の極意

2022-04-21 21:58:27 | 政を為すは人にあり

もっとも頼りになる者がもっとも恐ろしい。
鎌倉殿の十三人では史実通り、上総介広常が謀反の疑いをかけられて誅殺された。頼朝の非情で計算深い一面がよく現れていた。
広常が討たれたのは、梶原景時と双六を興じた後のこと。景時も生かすか殺すか思案に明け暮れ、その双六の結果で広常の命運つきるとするシナリオが描かれていた。広常の脇差しを事前に抜く善児。なすすべなく討たれ、「武衛!」と叫ぶ広常の最後の姿が虚しい。

双六は古代から多くの人々が興じ、その運や技に魅了されてきた。徒然草のなかに双六に対する兼好の考えが記されている。
双六の上手といひし人に、その行(てだて)を問い侍りしかば「勝たんと打つべからず。負けじとうつべきなり。いづれの手かとく負けぬべきと案じて、その手をつかはずして、一目なりともおそく負けるべき手につくべし」といふ。道を知れる教え、身を修め、国を保たん道もまた然り
(訳)双六がうまい人にそのやり方をきいたところ「勝とうとしてうってはならない。負けないように打つべきだ。どの手を打てば早く負けるだろうと考えてその手を使わず、少しでも遅く負けるようにすればいい」
兼好法師はこれを「その道をよく知った教え」と合点が行き、身を修め、国を治める道もまた同じと説いている。
政治家が「国を良くする」といってよくなることは少ないという。よい国がその人にとって都合のよいに過ぎないことが多い。夢や展望を語ることは大事だが、間違った方向に多くの人を向けないことが肝要だという。勝つことではなく、負けないこと。さらには負けるにしても、すぐには負けないこと。石橋を叩いて渡る人の方が政には向いているらしい。現代にも当てはまることのようだ。
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忍藩主阿部家 老中の家の葛藤

2022-03-28 20:00:12 | 政を為すは人にあり

忍藩主阿部家の当主は初代忠秋から正充(まさちか)まで5代続けて幕府の老中を務めている。これにより当主が幕府の要職に就くことが慣例となり、6代目となる正敏も要職就任を働きかけている。其の甲斐あって天明4年(1784)には大坂城代に就任。その時に幕府内の家老や奥方に渡した就任の礼金や贈答品の記録が残されていて、合わせて1265両となっている。日本銀行研究所の資料ではおおむね江戸期の一両は米換算で現在の四万円とされているのでざっと見積もって 五千万以上の働きかけをしている。(まさしく散財であろう)
阿部家の菩提寺は行田にある大長寺(浄土宗)で阿部家に限らず、諸侯は祖先を崇拝し神格化することでその正当性を堅持してきた。
正敏は初代忠秋の顕彰を行い、忍城二の丸に社をたて御神体として忠秋の武具を祀っている。阿部家にとって譜代大名として揺るぎない地位を築いた忠秋こそが顕彰の対象であったのだろう。

しかし幕府内での出世や大坂城代への赴任に加え天明三年の浅間山噴火や天明の大飢饉(1785)により忍領内も疲弊する。
このような状況下で正敏の藩政に異を唱えたのが世子であった阿部正識(まさつね)。正識は天明六年(1786)に意見書を出して現在の藩政は家臣や領内を顧みず、幕府内の出世と神仏ばかりに関心を向けていると痛烈に批判します。
正敏は大坂城代在任中に亡くなったため、阿部家の老中就任はとぎれてしまう。藩主を継いだ正識は宣言のとおり幕府の要職に就かず、藩政にのみ専念することとなる。
それはまさしく忍の藩政と家臣を思っての行いであったと考えらる。
正識は書道と漢詩に造詣深く、忍東照宮にも名筆が今に残されている。
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向かい風の今

2021-09-08 00:02:53 | 政を為すは人にあり

 九月を迎えいよいよ解散総選挙に向け、国会も動きだそうとした矢先、現職の総理大臣は、コロナ対策と自党の総裁選の準備は両立できかねるとして、早々に政局から離れてしまった。七月以降、オリンピック、感染拡大のニュースが大々的に報じられるなかで、一転政治のニュースが一大ニュースとなっていることに不思議な気持ちがする。

風によって当選し、風に吹かれていなくなっていく。選挙に弱い議員はまさしく一大事ということだろうが、任期満了による衆議院選挙であることには違いなく、これまで四年間かけて積み重ねてきた実績の評価であるとと共に、緊急事態宣言中の解散は医療関係者の負担を考えればあり得ないと言うことだろう。

紙面での論説に、私たち一般市民側から見た政治と社会との関係性がよく示されている文が眼に留まった。

小選挙区の弊害の一つに敵を作らないように妥協を重ねてしまうことがあげられる。今の議員は有権者にたいし、『そうですね、そうですね』となり『あなたは間違っています』などとはけして言わなくなっている。時を重ねるほど芯がなくなり、究極のポピュリズムとなって行く

有権者によって選ばれた議員は国民の鏡。今の社会は組織より個人を優先させる風潮が蔓延していて、これまで積み上げてきた秩序や常識と言った考えが崩れてしまっている。部下は言うことを聞かず、上司は厳しく指導もできない。

実際コロナ感染して入院も経過観察もできない事態になっているのは確かだろう。国会についてはオンラインで開くべきだ。そのための法整備だって即座に取り組むべきだろう。

いつかいつかと思っているうちにそのときは必ず来る。先送りという逃げの一手ではいつか退路がなくなるだろう。

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早く芽を出せ柿の種

2018-11-26 21:03:37 | 政を為すは人にあり

選挙権を得て早四半世紀以上経つが、これまで国政、地方選挙ともほとんど投票に行っている。仕事柄投票日は休めない為、事前投票がほとんどだ。政治には興味があるが、実際に自分の思いがどれほど反映されているかあまり考えたことはない。ただ投票を棄権するというのだけは、しないようにしてきたつもりだ。

本務社での平成最後の新嘗祭の当日、夕刻に県議会議員を目指す政治家の活動報告会があった。皿尾ふるさと館が新築されて初めてのことだ。前回の選挙では残念ながら惜敗し、「今度こそ」を合言葉に日々街頭活動をしている。SNSを通じご挨拶させていただくことはあったが、お会いするのは初めてだった。

政治家の地元は谷郷地区。春日神社の氏子さんだ。皿尾地区にようこそお越しくださいましたとご挨拶申し上げると、「祭事のお忙しい中、ありがとうございます」と笑顔で返していただいた。私より四つも若く、市会議員も経験した志高い政治家だ。プロフィールには幼稚園からの記載があった。私も子供たちも同じ幼稚園に通っていた。通っていた幼稚園の目標に「三つのできる」という理念がある。「自分からすすんで挨拶できる」「人の話を聞くことができる」「自分の気持ちを言葉で表現できる」というものだ。人として大事なことは意外と子供の頃に身につけるものだ。多くの人の声を聴き、政治家としてその受け皿になりたいと語っていた。そして政治家としての自分の施策や方向性を自分の言葉で語っていた。

 今回皿尾地区での活動報告会は、政治家の後援会長の職場での先輩が皿尾地区にいて世話役になっていた。私も子供のころからかわいがってもらっている方だ。とても穏やかで、人の世話を買って出る親心を合わせ持った人だ。実は私が結婚した際、地区のでの小さな披露宴をした時に、司会をしてもらったことがある。私にとっても本当に近所の恩人だ。人と人とのつながりは必ず広がるもので、そうした縁を感じて仕方なかった。話はそれるが、候補者のキャッチフレーズである「早く芽を出せ柿の種」というのは、埼玉県の上田知事がつけたものらしい。政党の枠を超え、理念を同じくする人のつながりがある。

 会館でのこうした集会は稀でましてや隣地区出身の政治家であったことから、どれほど人が集まるのかと思っていた。ところが定刻には満席となり、途中退出する人もなく最後まで熱心に聞き入っていた。これほどの数の人が神社の祭事で集まることはないのが少し寂しいところではあるが、やはり人をひきつける熱意があるのだろう。

 集会の最後は政治家のご婦人のお父様がハーモニカ演奏を披露した。市内公民館等で活動されていて、かなりの腕前だ。なつかしい選曲に、集まった人たも盛んに拍手を送っていた。

報告会が終わると、一人一人候補者本人と握手し「頑張ってください」「応援しています」といった言葉をかけていた。活動報告会の案内の中に「静かに見守っていても何も変わりません」「活発な意見交換をさせていただきたい」と記されていた。その通りで、選挙についても投票する側、される側それぞれ自分の意志を自分で表明しなければならないものだ。人任せにはできないのだ。

 私自身も柿沼さんと別れ際に握手し、こうした集会を開いていただいたお礼を申し上げた。「声を上げなければなにも変わらない」そう気づかせてもらたっこと本当に感謝している。だからあえて選挙の常套句である「頑張ってください」などとはとは申し上げなかった。なぜならこの地域でさらに頑張らなくてはならないのはこちらの方だから。

柿色のオレンジのネクタイが輝き、益々地域のために活動され、県政との懸け橋になることを心から願っている。

 

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正直は一生の宝

2017-09-28 22:03:03 | 政を為すは人にあり

 知恵伊豆の異名をとった松平伊豆守信綱。忍藩三万石の藩主を務めまた徳川家光、家綱の代老中として有能に実務を取り仕切ったといわれています。
 彼の幼少期のエピソードとして「正直」にまつわる話が残っています。
 信綱がまだ長四郎という幼名時代、竹千代(三代家光)と共に千代田城(江戸城)で遊んでいたころ、ある日将軍家の大切にしていた屏風を破ってしまったそうです。将軍徳川秀忠の怒りは凄まじく、だれもが咎をうけるか恐れていたところ、「私が破りました」と正々堂々と名乗り出て「大変申し訳ないことをいたしました」謝った子供が長四郎だったといわれます。すると将軍秀忠は「よくぞ正直に申し出た」と長四郎をほめ、「これからはかような過ちをしないように」と一言だけ戒めると、特に信綱を咎めることなくその場を去っていったといいます。
 「正直は一生の宝」という言葉がありますが、根底に正々堂々の気持ちがあれば、自然とその人間には威厳が生じるようになるとう意味合いがあるのではないでしょうか。その威厳が自信となりその人を後々大きくするのです。信綱が老中である間、幕府は安泰であったのは間違いありません。
 「大儀」という名のもとに、議会は解散されました。ハロウィン、そして神無月を前にとても日本中騒がしくなってしまいましたが、今問われるのはそこなのかと疑問に思う人はたくさんいるのでしょう。穏やかな実りの秋の刈り入れが終わることを切に願います。

 
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