星宮地区下池守を北上し、行田市内北部を横断する星川を渡って進むと馬見塚、中江袋といった田園地帯が広がり、さらに進むと旧南河原村の中心よりやや西側に河原神社が鎮座する。利根川が運ぶ肥沃な土壌を背景に早くから開けた土地で、私市党(きさいとう)河原氏が兄弟で領有し、兄の領地を南河原、弟の方を北河原と呼ぶ。
社記によれば応保元年(1161)平賀冠者義信が武蔵守に任じられ、関東へ下向し河原郷に城郭を築いて居住した際、先祖以来信仰していた住吉の神を祀るために、入間郡勝呂郷の住吉神社(坂戸市塚越)の分霊を勧請し、勝呂神社と称したことを由緒とする。ところで坂戸塚越の大宮住吉神社は文治三年(1187)頼朝の命によって北武蔵十二郡の総社に選ばれ、神職勝呂家はその当主としての役割を果たした。北武蔵十二郡とは入間・高麗・比企・男衾・大里・秩父・幡羅・榛沢・賀美・児玉・埼玉(さきたま)を指し、時代が下った江戸期には神祇官吉田家の出先機関としての仕事も行ったという。貞享三年(1686)の「北武蔵十二郡社家衆判形改帳」には六十社家の姓名と奉仕神社が列記され、当時の支配関係が読み取れる。尚、当家もそのうちの一つに当たる(青木家)。
棟札によれば本殿は延宝二年の再建、拝殿は宝暦十年の建立という。
当社は勝呂様の名で親しまれ、水の神として信仰が厚い。社殿裏には弁天池と呼ぶ池があり渇水期にはこの池の水を入れ、社蔵の獅子頭を被ったものが池に入ると雨がふると伝わる。あ現在では水は枯れ果て葦の藪となってしまっている。例大祭は八月一九、二十日の二日間であるが、お盆明けの土曜にササラが奉納されるようである。かつては神輿とともに獅子が村中を練り歩いたと伝わるが、あばれ太鼓とともに境内での盛大な夏祭りへと変化している。境内に立つ板碑は鎌倉時代のもので建長二年銘板碑として知られる。石材は荒川上流長瀞周辺の緑泥石であるが、これは古墳時代に使われた石棺石材の転用のもので歴史的価値が高い。
摂社の一つに多度社一目蓮社がある。多度社は三重県桑名市にある大社で天津彦根命を祀る。天照大御神の第三子。伊勢神宮との関係が深く、「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」と詠まれた。天津彦根命は天照大神と素戔嗚尊の誓約神話で生また男神五柱の一柱で多くの氏族の祖先として祀られている。
また一目連社はその天津彦根命の子である天目一箇命(あめのまひとつのかみ)を祀る末社で本来は片目のつぶれた竜神である。天の岩戸神話においては刀斧を作ったとされる。また大物主神を祀るときには鍛冶として料物を作ったとされる。鍛冶師が仕事柄片目をつぶすという伝承は全国に残っている。(お先沼等)
一目連は竜神としての性格から風をつかさどる神として知られる。伊勢湾においても雨乞いのと海難防止の祈祷がなされたという。水神との性格が近い。
さらに末社として青麻三光社を祀る(あおそさんこうしゃ)。青麻神社は宮城県仙台市に鎮座する青麻社・三光社の総本社で穂積保昌が山城国からみちのくへ下向した際一族が崇拝した日星月の三光を祀ったのが始まりという。日は天照大御神、星は天御中主神、月は月読命である。穂積保昌が土地土地に麻の栽培を広げたことにより「青麻」が社名となったという。氏子区域は明治初めに村社となってから南河原全域の鎮守となる。維新後もこの地の生活基盤は米麦大豆といった農業中心であったが、大正末期より麻裏草履の生産技術を生かしたスリッパの製造が村の主要産業となっていった。現在でも行田の足袋と並ぶ地場名産品の一つとなっている。
昨年秋に亡くなられた神社総代の御ひとかたと約四年間のお付き合いをいただいた。2年前の例大祭でお会いした時の優しい笑顔が忘れられない。故人のおかげでこの河原神社を始め世良田東照宮、など多くの御縁をいただいた。生前の御恩に深く感謝し哀悼の誠を捧げたい。