皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

カキと私の関係

2023-11-10 17:43:01 | 記憶の片隅

江戸の初期には養殖が始まったといわれるカキ。漢字で書くと「牡蠣」となるのは全部が雄に見えることから。
縄文時代にはすでに食べられていたと考えられていて、「蠣」の文字はゴツゴツした殻を意味するそうだ。近年養殖技術が進化していて、プランクトンを餌としないで養殖可能なものは「あたらない牡蠣」としてよくメディアにも取り上げられている。
牡蠣の料理には忘れられない思い出があって、何といっても牡蠣鍋。二十代のころ外食産業に勤めていて(何度かこのブログにも書きました)和食のファミリーレストランチェーンだった。冬メニューとして牡蠣鍋を提供していたけれど、忙しい時にアルバイト従業員が鍋に牡蠣を入れ忘れ、ただの野菜鍋で出してしまい、お客さんに大いに怒られたことがあった。ただひたすら平謝りで通してしまったが、お客さんのほうもずっと鍋の底のほうまで牡蠣を探していたらしい。
カキフライなどすっかり通年の冷凍材料だけれど、冬の味覚として牡蠣鍋などを堪能するのもいいかもしれない。
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奇跡の二条植え

2023-06-03 22:28:53 | 記憶の片隅

水無月に入り当地区でも週末にかけて田植えが進められています。このブログにも毎年田植えの様子を書いてきました。私の家では父の代を最後に水稲農家は廃業し、代々続く農地は耕作委託という形で管理しています。

委託している隣村の農家の方です(木元さん)今朝方から田植えを始めていました。昨年は休みが合い、苗だしの手伝いをさせていただきました。

どの農家さんも農業機械の維持管理に苦労しながら続けえているそうです。田植え機に関しては八条植か少なくとも6条植えの運転席に座るものを使っています。ご高齢の方でも経験で非常に颯爽と乗りこなし、まっすぐに植えていきます。

水が多すぎると苗が埋まってしまったり、また真っすぐ植えるのが難しくなるそうです。

近くの田んぼで手押し式の2条植えの機械で続けていらっしゃる農家さんがいます。平成15年我が家の最後の田植えの際この2条植えの機械で父と田植えをしました。泥に足を取られ、なかなか真っすぐに進まず、休み休み三反ほどの田んぼを二日かけて植えていたと思います。すでに病気を患っていた父ではありましたが、この2条植えの機械を意地で押していたと思います。田植えの作業がこれほど大変だとは思いませんでしたが、高度成長前、それこそ村中総出の手植えでやっていたころと比べれば幸せだったのかもしれません。

農家を続けるのも難しい時代です。神社の祭事は農耕信仰と結びついていますので、祭事を通じてこうした水稲農業を支援することを続けていきたいと思います。

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イチゴの日の思い出

2023-01-07 16:15:45 | 記憶の片隅

誕生月は以外とその人の性格を表しているようで、一月五日生まれの長男はおっとりしていて性格もいたって穏やかだ。もう少し自分の気持ちを全面に出してほしいと思うこともしばしばだが、中学に入って始めたテニスの試合を観る限り、その心配も薄らいだ。やるべきときには全力で取り組み、それでいて相手を思いやる心を忘れない。今のまま更に成長しもって生まれた優しさと思いやりの心を多くの人にと届けてほしいと願っている。
長女の誕生のときにはできなかった立ち会い出産から14年が過ぎた。男親というのは無力なもので、出産当時は本当におろおろするばかりであった。出産直前の病院食がなぜか焼き魚のホッケであり、とても出産にあたる本人は苦しくて食べられす、代わりにのうのうといただいたことをいまだに恨まれている。
そう男親とはそういうもので理不尽さにも耐え、どんな非難も受け止めただ立ち尽くすものだと自覚している。
無事に生んでくれたことへの感謝の気持ちは一生忘れない。
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手水舎の柄杓置きにみる未来

2022-05-21 21:57:03 | 記憶の片隅

平成八年奉納の当社の手水舎。近年行田市を始め各地の神社仏閣においては手水に花を生け「花手水」なる飾りつけで参拝者を迎えています。当社においても行田市商工観光課様にご協力いただき、花を生ける鉢をお借りし「行田花手水」を奉納しています。

始めてみると楽しいもので、境内や自宅庭に咲く季節の花を摘みながら、丁寧に水面に挿しながら穏やかな日々を過ごしております。
夏季になりますと花の数は増えますが、水の痛みも早く、なかなか毎日美しい花手水を奉納することもかないませんが、神域の尊厳を保ちながら、ご参拝の皆様の癒しとなるよう続けていきたいと思っております。

手水舎には柄杓の受けの竹がかけられておりますが、すっかり青竹も萎びて色もかすんでしまいましたので、本日竹を改めてみました。

この青竹の差し替えが前回いつであったか、記憶が定かではありませんが、私が宮司を次いで何度目かの夏祭りの時であったと記憶しております。当時すでに七十代後半の氏子さんが神社裏の竹やぶから切りだし、手際よく変えてくれたことをよく覚えています。子供のころからお世話になったIさんとKさん。Kさんは地元の大工の棟梁でありました。眩しく広がる青空と氏子による花飾り、子供神輿が出ていたことを鮮明に覚えています。

残念ながら今はお二人ともいらっしゃいません。ご葬儀で地元のかたとお見送りしたこともよく覚えています。ここ三年子供神輿すら出せなくなりました。

また現実問題として、残念ではありますがご高齢の地元の氏子さんをここ十年以上お一人、またおひとりとお見送りしてきました。それも私の務めだと思っています。
こうして境内地ので整備や維持も私自身で奉仕することも多くなりました。もちろん氏子さんのお力添えがあってのことですが。
先の見通しが明るいとは言えません
覗いても竹の節でさきが見えないようなものです。。ただ先人の残してくれたものを受け継ぎ、また浄財をお寄せいただきながら氏神様のご加護の元、社殿を維持し清め、祭祀に奉仕続けること今の私にできることだと思っています。いつか私の後を継いでくれるものがいると信じていますし、こうした氏子区域の佇まいが少ないながらも氏子のつながりによって守られていくことを願っています。



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閉校記念誌のことばから

2022-03-23 22:59:48 | 記憶の片隅

私の母校である行田市立星宮小学校は本年三月をもって136年の歴史に幕を下ろすことになりました。私自身は昭和54年入学同60年卒業。また自身の子供たち二人で足掛け9年間通して通い、少なくとも人生50年のうち、15年はこの小学校に直接お世話になっていたことになります。行田市の北西、広大な田園地帯の真ん中にある校舎ができたのは昭和62年のこと。私が小学校5年生の時でした。それ以前は
上池守の西端に建つ木造校舎で、私自身は4年間はるばる農道を2キロ以上歩いて通っていました。

星宮小学校は明治5年(1872)の学制発布により池上梅岩院本堂に開かれた池上学校を初めとします。開校136年を誇る地域の伝統校が閉校してしまうことは、地元民として大変さびしく思いますが、新たに開校する忍小学校との合併を祝いながら、これまでの歴史を誇りに、次世代に伝えていくことが責務だと感じています。
閉校に当たり昨日記念式典が行われ、多くの卒業生が集いました。屋内での式典はコロナ感染拡大防止の観点から、出席者も制限されましたが、屋外のバルーンリリース(記念風船飛ばし)には300人以上が集まった模様です(風船が足りなかったそうです)
週が明けて閉校記念誌が手元に届きました。歴代の校長先生を始め、PTA会長はもちろん各字から在校時の思いでが寄稿文として掲載されています。私も旧校舎、新校舎両方に通ったことから皿尾地区を代表して(2名)書かせていただきました。思いでの小学校を最後の記念誌に掲載していただき、感謝の気持ちでいっぱいです。

テレビ埼玉でも今回の閉校のことが取り上げられていました。
農村部の小さな学校ながら、多くの人々に愛された素晴らしい小学校であったことが伝えられていました。
その中で小規模学校故に、高学年が低学年の面倒をよく見ることが学校のよさであり、伝統だと伝えられていました。在校生の六年生のことばが今の日本にもっとも大切なのではないかと感じました。
「どうして五、六年生は小さい子達の面倒をよく見るの?」
「自分が小さいときに、お兄さんやお姉さんがそうしてくれたからです」
これこそが私たち日本人が紡いできた精神です。
今でも星宮小学校を誇りに思います。
拙いながらも私なりに当時を思いだし一生懸命書いた寄稿文をここに転記します。

遥かなる池守の木造校舎成田道
 皿尾 昭和59年度卒業 青木 孝茂
昭和54年入学の私たちの校舎は上池守の古きよき木造校舎でした。桜の花咲く肌寒い4月の入学式の写真は当時の北向の玄関前でとっていただいたものです。高度経済成長が終わって5年。バブル経済が始まろうとする少し前の頃、戦後日本がもっとも穏やかだった時分と言えるでしょうか。木造校舎の前には鮮やかに咲く菜の花の花壇がひろがり、幼く小さな私たち20名を温かく迎えてえくれているようでした。
皿尾から池守まで続く一本道は長大道と呼ばれる県道303号線で昔は「成田道」と称された古道です。幼い足で歩くにはあまりに長い道のりでしたが、今となっては苦楽をともにした仲間とのよき思いでの道となっています。
五年生で移った新校舎は青々とした田んぼに囲まれた美しい校舎で、二階の昇降口玄関から眺める中庭の景色を今でも忘れることはありません。当時佐新鋭の設備であった校内放送を昨日のことのように思い出します。

このブログを読んでくれている同級生や先輩後輩のかたがいたら是非連絡をください。今でもあの頃のまま元気に過ごしています。
ずっとこの星宮の地で頑張っていこうと思っています。
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