皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

頼政神社と御首伝説

2017-11-23 16:14:46 | 麻久良我乃許我の里
古河には源氏にまつわる伝承がいくつか残っています。ひとつは頼朝が幕府を開く前、治承四年(1180)平家追討のため挙兵した源頼政に関するものです。
頼政は平治の乱に活躍し、平氏政権の中で源氏の実力者として認められた人物です。弓の名手で京都で「ぬえ」という妖怪を射止めた伝説も残っています。平家との戦で敗れ宇治平等院で自害した際「我が首を持って魂の安らぐ土地を探せ」と命じます。言葉に従った家臣が古河の木崎に至ると首がにわかに石の如く重くなり、ここがその土地に違いないと、首を祀ったと言われます。現在神社は旧古河城の北側の土塁の上に立っています。古河城内には頼政曲輪の名も残っていたそうです。
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古河総鎮守 雀神社

2017-11-21 21:47:48 | 麻久良我乃許我の里

 古河に赴任してすぐに雀神社に参拝しました。九月に入ってすぐの頃です。渡良瀬遊水地の東側、茨城県最西端にあります。
 社伝によれば、崇神天皇の御代豊城入彦命が東国鎮守のために勧請した『鎮社』に起源するとの説と、清和天皇の貞観年間、出雲大社の分霊を祀ったとの伝承もあるといいます。代々の古河公方の崇敬を受けてきました。
 弘治二年(1556)足利晴氏の正室芳春院(御台様)が鰐口を寄進しています。また足利義氏の娘、氏姫は土地を寄進しているようです。江戸期に入り古河城主からの崇敬も受け、現在の社殿は慶長十年((1605)松平康長が造営したと伝えられ、指定文化財となっています。

 御祭神は大己貴命、少彦名命、事代主命。出雲系の国津神です。北武蔵の久伊豆神社と同じですが,勧請の経緯が異なります。

境内入口にある御神木は『夫婦欅』と呼ばれる大欅で2本が結合しています。こちらも市の天然記念物に指定されています。
鎮めが転じて雀となった神社。穏やかな渡良瀬のほとりに静かにたたずんでいます。
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渡良瀬川を渡ると

2017-11-20 21:51:24 | 麻久良我乃許我の里

 初冬を迎えて間もないうちに、厳しい寒さに見舞われています。確か昨年の今頃も初雪が降ったように思います。今週は勤労感謝の日、すなわち新嘗祭も迎えます。運動公園の美しい紅葉も足早に散り始めているようです。九月から縁あって下総国、古河に赴任して早三か月。見るものすべてが興味深く、時間の経つのも忘れてしまうようでした。今日は午後から研修のため、半日古河の史跡をめぐることができました。

 少し遡りますが、渡良瀬側沿線から見える三国橋です。九月半ばに見た景色でとてもきれいに見えました。渡良瀬川は茨城県西部と武蔵の国埼玉県の県境を流れる一級河川で、利根川の支流にあたります。長さは約110km。その源は栃木県北、西部にある庚申山と言われています。渡良瀬遊水地で巴波川、思川と合流し、北川辺との境を流れ、利根川に注いでいます。古くから海上交通の要所となったところで、八世紀に成立した万葉集巻十四の東歌の中に、『許我』、『許賀』と表記された歌が二首見られます。いづれも『麻久良我の』という枕詞に続きます。

 逢わずして 行かば惜しけむ真久良我の 許我漕ぐ船に 君に逢はぬかも
(大意)お会いしないまま出かけてはとても残念です。まくらがの許我を漕ぐ舟の上の貴方にお会いできたらいいのですが

 真久良我の 許我の渡しの韓かぢの 音高しもな 寝なへ児ゆゑに
(大意)まくら我の許我の韓かぢの音が高いように 噂が高く立ったなあ。未だ共寝をした娘ではないのに
 
韓かぢとは船を進めるかいのことのようです。

いづれも詠み人知らずではありますが当時のはかない恋歌であるようです。共に河川交通を推し量る歌となっていて、今も川辺に立つと情景が思い浮かぶようです。千年以上の時を超え今日にいたるまで絶えることなく続く川の流れに、この地の歴史と文化を感じることとなりました。
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