九月に入り北埼玉でも稲穂が実りつつある。すでに北川辺周辺では収穫を終え、検査も始まって近々流通するようになると伝え聞いている。
そうは言うものの多くの消費者が頼る大手食品スーパーの米売り場に米が並ばない状況が続いている。並んだとしても一度供給不足になっていると、即売してしまい常に売り場が空になってしまう。東日本大震災のあと特定商品が品切してしまったり、地震のあとペットボトルの水が品切してしまうのと同じ状況だ。国民の主食である米が流通不足になりながら『新米が出ると解消されるのお待ちください』とはよくいったものだと思う。これほど国民生活の脆弱な一面を感じることはそうはない。
資本主義である以上、いかなる商品でも価格メカニズムが働いて、『価格』が決まる。いわゆる需要と供給のバランスで社会全体が成り立っているということだ。どんなに収穫できても余ってしまうと価格が下がってしまうのでレタスやキャベツが産地で捨てられてしまう様子がよく写し出される。でも米はそれでは困るから1995年までは政府による全量買い上げが行われて来たが(食管法)米を生産者が直接消費者に売ることができるように食糧法として改正し30年が過ぎた。行き過ぎた減反政策や備蓄米の管理など様々な問題を抱えながらも、1993年の米不作移行米が手に入らないという事態は記憶にない。
食糧政策について提言できるほどの知識も経験もないが、ひとつ言えることは生産手段を持たない消費者は、その使用価値を求めるのに(米を食べて腹を満たす)、価値(すなわち価格)の決定権を持たないということ。
資本論で言う価値の対価として働き続けるしかないと言うこと。米が高いから小麦を食べましょうというのは、根本的問題を先送りにして、今日の空腹を満たそうということに他ならない。
消費者は米を大事にしてきたのだろうか。食べられなくなってはじめて気づく。新米が流通すればすべて忘れてしまうのだろうか。喉元過ぎれば熱さ忘れる。いつまでもそういうことが繰り返せるほど今の社会基盤は磐石ではない。