花の四日市スワマエ商店街

四日市の水谷仏具店です 譚

観光の哀しみ

2010年09月12日 | わたくしごと、つまり個人的なこと
ただ今午後4時。日曜日。残暑が続く商店街は閑散としている。惰眠から目覚め、半ば呆然として店の真ん中にたたずむ。恐ろしいほどの閑散振りである。
本町のハットリ氏から借りた、酒井順子著の「観光の哀しみ」を少し覗いてみる。観光の何が哀しいのか?
旅行をしているとき、ふとした瞬間にものすごく、哀しい気分に襲われることはないでしょうか?の一文で始まる。
観光という行為は、基本的には「招かれてもいないのに出かけていく」ことによって成り立っていることが、哀しみの原因ではないか、と書いてみえる。
観光客にお金を落として欲しい一方「旅の恥はかき捨て」気分で立ち入って欲しくない部分は拒絶されるのが原因の一部か。
さて、旅の哀しみで思い出す。
昔、男ばかりの十数名で一泊旅行に出かけた。卑猥な期待感でいっぱいの楽しい旅行である。行き先は○○温泉。役員が腕によりをかけて探し出した穴場だ。泊まる旅館は、駅前の温泉街から少し外れたところにあった。
遊郭の面影が残る通りに建つ宿は、木造の二階建てで古びていた。
薄暗い玄関から入ると、すれ違いざま、おばはんにマタグラをつかまれた。慣れた手つきで次ぎつぎと触って行く。ヨロコブと言うよりもあっけに取られた。つかみ返す気分にはなれない。
さて、小さい風呂に押し合いで入った後、宴会がはじまった。
ここで三人のおばはんの熱演が始まる。あまりのおぞましさに、ほとんど記憶にないが、最後は並んで腰巻ひとつで踊っていたのを覚えている。
参加者の大半が中座して部屋に寝転んでいると、飯が用意できたと呼び戻された。
夜が明けて朝食時。旅館の朝は独特な雰囲気がある。
おばはんは、昨夜の非礼を弁解という形で話す。客に舐められないため昔からやってきたことだそうだ。
おそらく、この御仁方は若い頃娼婦だったのだろう。おばはんの好意にノリの勢いで答えるべきだったか?
哀しみというよりも、悲しみを感じつつ温泉街を後にした。