花の四日市スワマエ商店街

表参道スワマエ商店街会長のひとり愚痴

“スモーク”という煙に巻かれたような映画2

2022年12月24日 | 映画の名言、映画の迷言

たばこ店 オーギーの店に、昔 彼女だった独眼竜(思わず笑える)の女性が乗り込んでくる。「オメメはどうしたの?」と聞くと「無くしたの。悪いものを見すぎたから。ところで お願いがある。妊娠している娘に会ってくれないか」という。「本当に 俺の娘か?」と聞くと“フィフティ フィフティ”との答え。二人で会いに行くと、娘は麻薬中毒で毒舌満開。子供は降ろしたといわれ あっさり追い返される。そのあと娘は、こみ上げる悲しみの表情をする。(彼女はその後、救われることになるので ご安心を)

クリスマスだとわかるのは最後のシーン。妻を亡くして以来スランプに陥っていた作家のポールに、N.Y.タイムスから“クリスマス向けのいい話”の仕事が舞い込んできた。「何か、良い話はないか?」「昼飯をおごってくれたら話すよ」とオーギー。

この最後の話のシーンが良い。このシーンを撮るのに監督は3日かけたそうだ。はなし始めるオーギーの顔がゆっくりアップされる。

話は、店の万引き少年を追いかけると財布を落としていった。そこには、住所の紙片と母親との二人の写真が入っている。その住所を頼りに、財布を持ってクリスマスの日に届けることにした。古いアパートに 盲目の老婦人が一人で住んでいた。思わず「息子だよ」と言ってドアの隙間から声をかけると「ああ、息子かよく来た」と言って部屋に入れてくれた。持ち込んだチキンとワインでささやかなパーティをする。

実はおばあさん、訪れたのが息子でないことは初めから知っていたのだ。おばあさんが寝入っている隙に、置いてあった万引きの品と思われるカメラを拝借して帰った。「作り話だろう。うまく出来すぎている」とポールは笑い飛ばそうとする。最後のシーンでは、その時の様子がモノクロで映される。

クリスマスは誰もが幸せになれる権利がある。その幸せを分かち合える日が まさに クリスマスである。

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