今日はチョット照れくさいような話です。今年の1月22日母親が他界しました。実は7年前の同じ日、1月22日に親父も亡くなっているのです。時刻も20時頃で、1時間とずれてなかったと思います。
葬儀の席の挨拶でもお話させていただきましたが、私は仏壇屋を営んでおります。戦後の民主教育の中で育ったせいもあるでしょうが、職業柄、あまり神とか仏を信じるほうではありませんでした???
ところがこれをきっかけに考え直さざるを得なくなったのです。偶然ということばでは割り切れません。両親とも高齢で病死でした。母親の部屋にはカレンダーはかかっていませんでしたので、その日が何月の何日なのか、はっきりと分かる状況ではありませんでした。不思議です。
人間は、泣いたり笑ったりしていますが、それは所詮、大きな手のひらの中でのことで、その手のひらの外には、生とか死にかかわる、及びもつかないような大きな力が働いている。それを古来、人は、神とか仏と名づけてきたのではないか、と考えてもみました。
瀬戸内寂聴さんは「寂聴般若心経―生きるとは」(中公文庫)の中で、全宇宙の生命体を、神とか仏と呼んできたのだ、とおっしゃってみえます。なんとなく分かったような気がしたのですが、生来、不信心の私のこと、そのときは分かったようでも、いまひとつしっくりきませんでした。
そして今回、柳澤佳子さんの「生きて 死ぬ智慧」(小学館)をネットで調べ、売れていることを知り、思い切って買い求めてみました。
まじめな文章は、疲れます。また、次回。つ づ く
葬儀の席の挨拶でもお話させていただきましたが、私は仏壇屋を営んでおります。戦後の民主教育の中で育ったせいもあるでしょうが、職業柄、あまり神とか仏を信じるほうではありませんでした???
ところがこれをきっかけに考え直さざるを得なくなったのです。偶然ということばでは割り切れません。両親とも高齢で病死でした。母親の部屋にはカレンダーはかかっていませんでしたので、その日が何月の何日なのか、はっきりと分かる状況ではありませんでした。不思議です。
人間は、泣いたり笑ったりしていますが、それは所詮、大きな手のひらの中でのことで、その手のひらの外には、生とか死にかかわる、及びもつかないような大きな力が働いている。それを古来、人は、神とか仏と名づけてきたのではないか、と考えてもみました。
瀬戸内寂聴さんは「寂聴般若心経―生きるとは」(中公文庫)の中で、全宇宙の生命体を、神とか仏と呼んできたのだ、とおっしゃってみえます。なんとなく分かったような気がしたのですが、生来、不信心の私のこと、そのときは分かったようでも、いまひとつしっくりきませんでした。
そして今回、柳澤佳子さんの「生きて 死ぬ智慧」(小学館)をネットで調べ、売れていることを知り、思い切って買い求めてみました。
まじめな文章は、疲れます。また、次回。つ づ く
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