明治維新胎動の地 松下村塾
今年4回目の松下村塾です。何回訪れても身の締まる思いがします。来年(2015年)の大河ドラマは吉田松陰の妹が主人公とのことですね。花神のときの吉田松陰(篠田三郎)、高杉晋作(中村雅俊)の演技がなかなか忘れられません。
入口に立つ石碑です
松下村塾
秋芳洞のシンボル的存在の黄金柱
遠くからのお客様を山口県の観光へご招待しました。最初はやはり山口県で一番の観光地、秋芳洞へ入りました。神秘的な石筍などを見学、洞内の温度はいつも一定ですね。
秋芳洞入口
青天井
百枚皿
洞内富士
苞柿(すぼがき)
傘づくし
大黒柱
黄金柱
笠置山から眺める英彦山や鷹ノ巣山の風景
福岡県の山歩きも終盤に入りました。今回は宮若市にそびえる笠置山です。山頂手前には祠の置かれた広場があり、平坦な尾根を辿って山頂へ着くと、大勢の登山者で山頂は大賑わいでした。
この方達は、私とは反対側のキャンプ場方面から登っておられました。その中におられた地元のTさんより、付近の山について教えていただきました。山頂からは福智山や英彦山、三郡山などが一望で、英彦山には雪が残っていました。
笠置山登山口
案内が多く設置されてます
登山途中に眺める福智山
祠の置かれた広場
明るい山頂です
福智山、牛斬山、香春岳、障子ヶ岳
大根地山、三郡山
山頂には大勢の登山者が休憩していました
詳細な登山記はHP法師崎のやまある記でお楽しみ下さい
久坂玄瑞誕生地
久坂玄瑞は幕末の志士でこの地に出生しました。明倫館に入り、のち医学館で学びますが、医業を好まず吉田松陰に学んで高杉晋作と共に松下村塾の双璧と称されました。
長井雅楽の航海遠略策に反対し、藩論を尊皇攘夷に一変させ、尊攘督促勅使東下の奏請に奔走、英国公使館の焼打に下関の外国船砲撃に参加しました。
元治元年(1864)蛤御門の変に敗れ、鷹司邸内で自刃しました。享年25でした。
野山獄跡
正保2年(1645)9月17日夜、藩士岩倉孫兵衛は酒に酔って道を隔てた西隣の藩士野山六右衛門の家に切り込み、家族を殺傷しました。この事件のため、岩倉は死刑となり、両家とも取りつぶされ、屋敷は藩の獄になりました。
野山獄は上牢として士分の者の収容を、岩倉獄は下牢として庶民を収容しました。なお、現在の指定地は獄の一部分です。
幕末、吉田松陰は海外渡航に失敗したのち野山獄に、その従者金子重之助(重輔)は岩倉獄に投ぜられました。松蔭はここで仲間の囚人を教化するという前例のない教育活動を行っています。
野山獄はまた維新前夜の藩内抗争の中で、正義派(革新派)・俗論派(保守派)双方の藩士が投ぜられ、処刑された場所でもあります。
合霊碑
岩倉獄跡
吉田松陰・金子重輔像
吉田松蔭、高杉晋作、久坂玄瑞などの眠る墓所へ行きました。すぐ近くには吉田松陰生誕地もあり、吉田松陰が毎日眺めていた風景を眺めることができました。
高杉晋作草庵跡地顕彰碑
墓所案内図
吉田松陰墓所
高杉晋作墓所
久坂玄瑞墓所
萩城下と指月山
岩屋城に建つ石碑
四王寺山登山の後、下山は岩屋城に立ち寄りました。全く予備知識無しに岩屋城へ着き、その展望の良さに感動しました。それ以上に感動したのが嗚呼壮烈、岩屋城の戦いです。
岩屋城は16世紀半ば(戦国時代)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種(あきたね)によって築かれました。
同12年彼は主家大友宗麟(そうりん)に叛き城を追われ、代わって吉弘鎮理(後の名将高橋紹運)が城主となりました。
紹運は天正14年(1586)九州制覇を目指す島津5万の大群を迎え撃ち、激戦十余日、秀吉の援軍到着を待たず、城兵763名と共に玉砕し落城しました。まさに壮烈ですね。
四王寺山登山の鏡ヶ池から水城の案内に従います
馬責めから坂を下ります
自然歩道は道路を横切ります
石段を登れば
岩屋城です
三郡山と宝満山
大根地山・砥上岳
九千部山
玄界灘
太宰府政庁跡
紅葉
高橋紹運公並びに勇士の墓
秋の森の紅葉
政庁跡から四王寺山
詳細な登山記はHP法師崎のやまある記でお楽しみ下さい
松下村塾発祥の地 玉木文之進旧宅
玉木文之進は、吉田松陰の叔父に当たり、杉家から出て玉木家(大組40石)を継ぎました。生まれつき学識に優れ、松蔭の教育にも大きな影響を与えたほか、付近の児童を集めて教授し松下村塾と名付けました。この塾の名称は後に久保五郎左衛門が継ぎ、安政2年(1855)には松蔭が継承して、名を天下にあげるに至ったことから、この旧宅は松下村塾発祥の地といえます。
旧宅内部
四王寺山(大城山)山頂風景
山です。油山・荒平山の登山口から政庁跡へ向かう途中でひまわりとコスモスを観賞しました。コスモスが一面に咲く姿は美しいですね。
政庁跡の駐車場へ車を置き、政庁跡を見学した後登山開始です。途中では坂本の大石垣を見学して尾根へ着き、創造の森、28番札所、26番札所からの展望を楽しんで毘沙門天へ参拝。すぐ横にそびえる山頂へ到着しました。
山頂からの展望は望めませんが、苔むした山頂にいると心が落ち着きますね。その後、礎石跡や鏡ヶ池なども見学しました。
荒平山の麓でひまわり鑑賞
コスモス畑がきれいですね
太宰府政庁跡から四王寺山を眺めます
政庁跡の紅葉がきれいです
登山道入口
坂本の大石垣
創造の森展望台
三郡山と宝満山
28番札所から眺める九千部山
26番札所から眺める福岡市街
毘沙門天
四王寺山(大城山)山頂
礎石跡
鏡ヶ池
詳細な登山記はHP法師崎のやまある記でお楽しみ下さい
伊藤博文旧宅
旧宅は、最初、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の居宅でしたが、安政元年(1854)頃博文の父が一家をあげて伊藤家に入家してからは、博文の居宅となりました。ここで博文は、吉田松陰の門下に入って教育を受け、志士として活躍しました。
その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣に就任するなど政府の要職を歴任しました。
別邸は、日本で最初の総理大臣伊藤博文が明治40年(1907)に東京都品川区大井に建てたものをこの地に移築し、平成13年(2001)から公開しています。別邸内には、天皇から下賜された灯籠や杉の一枚板で作られた鏡天井などがあります。
旧宅入口
伊藤博文邸宅
伊藤博文像
旧宅
旧宅内部が公開されています
油山山頂から眺める福岡市街の展望
福岡県の山歩き、前回登り残した油山へ向かいました。荒平山への分岐を直進し、油山へ向かって直登です。鞍部から急な坂を登って439mピークを通過、更に急登を踏ん張り、山頂へ到着しました。
山頂からは福岡市街の展望が一望で、大勢の登山者が山頂で休憩していました。帰りには前回登った荒平山へ立ち寄り、登山口まで戻りました。
林道終点登山口
荒平山と油山の鞍部から油山へ
木の間越しの福岡市街
急な坂を登ります
439mピーク
ピーク先の急登
紅葉がきれいです
油山山頂
山頂からは福岡市街が一望
福岡タワーも見えます
下山途中に荒平山へ
詳細な登山記はHP法師崎のやまある記でお楽しみ下さい
明神池の横に祀られた厳島神社
厳島神社の祭神は素戔嗚尊の御子で、市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命の御三姫命。毛利二代藩主綱広公の時代、延宝3年(1675)安芸国宮島より厳島大神をこの地に勧請し、越ヶ浜地区の氏神様として祀られました。
明神池は、笠山と本土との間に砂州ができて陸続きになった時、埋め残されてできたかん水湖です。池は大池、中の池、奥の池の三部分からなり、溶岩塊の隙間を通して外海とつながっており、淡水と海水に住む魚の両方を見ることができます。
大根地山の山頂風景
目配山、砥上岳の次に登ったのは大根地山です。岩石山や牛斬山から宝満山を眺めた時、左にぽつんとそびえる特徴ある山ですね。
冷水峠の手前から甕冠神社へ行き登山を開始しました。本日三山目なので日暮れが心配でしたが、予定通りの時間で山頂へ着きました。
山頂からは目の前に三郡山と宝満山がそびえ、北九州の福智山、平尾台、牛斬山に香春岳などを眺めることができました。
また、山頂付近には大根地神社が祀られており、ここまでは車で来ることができそうです。
麓から眺める大根地山
冷水峠の手前に立つ案内
登山口の甕冠神社
神社の紅葉
登山道入口
案内はこれ一つで山頂へ着きます
山頂へは反射塔の方向へ向かいます
平坦な山頂です
宝満山と三郡山
福智山、平尾台、牛斬山、香春岳が見えます
眼下にはゴルフ場が見えています
山頂付近には大根地神社が祀られています
展望が素晴らしいですね
詳細な登山記はHP法師崎のやまある記でお楽しみ下さい