語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】中野好夫の『酸っぱい葡萄』

2010年11月01日 | ●中野好夫
 『酸っぱい葡萄』は、剛毅な精神の持ち主である中野好夫の「恥さらし」の文集である。「恥さらし」とは、著者自身の「いささか長すぎるまえがき」での自評だが、仮に「恥さらし」だとしても、それを公刊する精神はやはり剛毅というものである。

 収録したのは1937年から1949年までの42編である。日中戦争の年から戦後の“朝鮮戦争”の前年まで、政治、文化、教育、知識人、語学、思い出と、論題は多様である。多様だが、一読して人間中野の動かぬ眼と精神がうかがえて、しずかな感銘に身をおくことになる。

 たしかに、著者自らいうように、敗戦直後の「天皇制支持」から、1949年の「天皇制廃止」へと、きわだって変わった点もある。しかし、読者がうたれるのは、情況が変わったからといって、前の情況下での自分の姿をかくさない著者の姿勢である。

 たとえば戦後さいしょの文の一つ(「文化再建の首途に」)で、こう書く--「私は占領軍最高司令部の前にはっきり言うが、私は戦争に協力した。しかも便乗して協力したと、はっきり言明しておく」。それは居直りでも、いやみでもない。正直なところを平明に表白することで、情況とともに変わり、現実の中身なしに「概念濫用」で大見えをきるものの軽薄をつく。いやそんな意図的なことではなく、そこには人間性をもって事の判断、理非をおのずから明白にする著者の持ち味が浮かぶ。

 「いうならば私は社会主義を信じる保守主義者である。人間観としては、人間がいわゆる天使でもなければ獣でもない。中間の謎のような存在物であると信じている。進歩は否定しないが、ユートピアの夢は持たない。ただ論理的だけに首尾一貫徹底した思想に好意を持たない。むしろ矛盾はあっても、深く現実を愛する思想を好む」

 著者の文は、肩を張ったり、晦渋を極めたりはしない。男性的にからっと思うところを表出して、朴直である。その「現実的人間主義」の表白である本書を読んで、評者は一つの感動をえた。評者も戦後の評論で鬼面人をおどろかすていの言動をし、30年をへて自分なりに落ち着くところがあったが、『酸っぱい葡萄』を読むと、そのことごとくが、すでにこの本で中野好夫が明示した事柄だったからである。

 ここにもう一冊の“戦中と戦後のあいだ”を示す好著を得た。不動のものは、やはりあったのである。

   *

 以上は、朝日新聞書評欄の1979年9月16日付け書評である。
 評者の氏名は、ついに不明のままだ。
 ちなみに、“戦中と戦後のあいだ”は、丸谷真男の著書『戦中と戦後の間 1936‐1957』(みすず書房、1979)を踏まえている、と思う。
 余談ながら、「天皇制」という用語は、コミンテルン(共産主義インターナショナル=国際共産党)によって作られた単語だ。1932年5月にコミンテルンで「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(通称「32年テーゼ」)が採択された。日本語では、昭和7年(1932年)7月10日付国際共産党日本支部(日本共産党)中央委員会機関誌『赤旗』特別号に発表された。この「32年テーゼ」によって「天皇制」という共産党用語が流行するようになった【注】。

 【注】佐藤優『日本国家の神髄 -禁書『国体の本義』を読み解く-』(産経新聞出版、2009)P.25による。

【参考】中野好夫『酸っぱい葡萄』(みすず書房、1979)
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