語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【司馬遼太郎】『花神』

2016年08月15日 | 小説・戯曲
 
 古い倉庫を始末し、新しく設置した際、古い倉庫から出てきた本の一。

 (1)村田蔵六、のちの大村益次郎は、長州は周防の村医の息子として生まれた。長じて蘭学に志し、大阪で緒方洪庵の適塾で学んだ。塾頭となったが、父の命にしたがって帰郷し、家業をついだ。
 英才を求める宇和島藩に招かれて、砲台の建設、初の国産蒸気船の建造に寄与する。居を江戸に移し、幕府が新設した洋学研究所、蕃書調所(後の東大)に採用されて、教授手伝から教授へ進む。併せて私塾を経営し、塾は繁盛した。桂小五郎(後の木戸孝允)と相知る仲となり、桂の招聘で故郷に錦を飾る。
 当初は新参の身、鳴かず飛ばずだったが、やがて軍師として頭角をあらわし、推されて長州の軍司令官、ついには官軍の総司令官となって、幕軍とその残党を蹴散らした。
 抜群の合理的思考の持ち主だった。反面、無愛想と受け取られかねない無口、冷徹すぎる論理は敵をつくった。大村益次郎は西郷隆盛を軽んじ、西南の役を予想する先見の明があったが、明治2年、大西郷を奉じる海江田信義が放った刺客に暗殺された。

 (2)毎晩豆腐だけを肴に銚子2本をあけるという杓子定規な、カント的習慣の持ち主であった。しかも石部金吉である。シーボルトの娘、産科医のイネに慕われるが、少なくとも本書ではそういう設定だが、大村益次郎のほうからは知的な会話以上の働きかけはない。歯がゆい思いをするのは、イネだけではない。
 かといって、正妻のお琴は、生涯のほとんどを旅に暮らした夫君をちっとも理解しなかった。友人といえるほどの友人もなかった。
 小説の主人公としては実に退屈だが、かかる人物を司馬遼太郎があえて描こうとしたのは、戦前から戦中にかけて、著者自身が情念優位の土俗ナショナリズムに苦しめられた体験があったからだろう。少なくとも司馬遼太郎描くところの大村益次郎の合理的精神が昭和の軍部に支配的だったならば、軍人としての司馬はもっと快適に過ごせただろうし、そもそも十五年戦争は生じなかったはずだ。

□司馬遼太郎『花神(上中下)』(新潮文庫、1976)
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