語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:『娘の学校』

2016年04月27日 | エッセイ
 「娘の学校」は、校長はなだ いなだ、生徒は2歳から10歳までのかれの娘4人の小さな「学校」である。

 ところが、この校長、ときどき生徒のほうから学ぶのだ。げにも、ジャン・ピアジェがいったとおり、「子どもはおとなの先生である」

 一例をあげよう。
 長女が6歳のとき、いつものように「ありがとう」の言葉を報酬にするつもりで煙草を買いに行かせた。買物から帰ってきた娘はのたまうた。
 「パパ、ありがとうも、いい子だ、も言わなくてもいいよ。煙草買いごっこ、もう面白くないよ」

 なだ いなだは、一瞬当惑を感じた、と告白している。自分の下手な演技がいつから見破られていたのか気づかなかったこと、娘の演技に自分が騙されていたことに気づかなかったこと、その「二重の敗北感みたいな感情」におそわれた、と。
 なだ いなだは、その後は、煙草買いは二女、三女に委ねた。

 なだ いなだ自らいうように、いい子とは親にとっていい子なのだ。
 親よりも同年齢の友だち同士で遊びたい時期に達した子どもにとっては、煙草買いはいい子ではない。
 ましてや、禁煙キャンペーンをはる保健所にとっては、いい子ではない。
 いい子は相対的なものにすぎない。
 一般的にいって、ある価値判断は一定の条件付きでしか通用しない。

 こうした相対主義は、市民社会全般に適用される(校長の得意とするところである)。
 たとえば、フランスの5月革命におけるドゴールである。
 かつてドゴールは、前大戦中亡命先のロンドンから本国のペタン元帥に向けて言った。「あなたは老いすぎている。国民を指導するためには、頭が固くなりすぎている」と。
 そのドゴールは、自分が当時のペタン元帥と同じ年齢になったとき、なおも国民を指導していることを忘れた、となだ いなだは指摘する。
 人は知らず知らず年をとるものだ、その新しい年齢は自分にとって未知のものだから自分が若い時に老人と目した年齢に達していることに気づかないのだ、云々。
 ドゴールを歴史の人と呼ぶならば、21世紀の日本に探してもよい。全共闘世代なら、すぐさま実例をあげることができるかもしれない。

 一般的にいって、AがBに対していったことは、当のAに対しても適用される。
 AがBに対していったことが、当のAに対して適用されないならば、Aの言葉になんら信頼をおくことはできない。
 相対主義は、市民社会の原理である。

 親子関係に話をもどすと、親子のなかの相対主義に不都合があるだろうか。
 あるだろう、いつまでも「いい子」であってほしい親にとっては。
 いつまでも親のスネをかじっていたい子どもにとっては。
 しかし、人も社会も変化する。
 相対主義は、変化を前提としている。

□なだ いなだ『娘の学校』(中公文庫、1973)


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