(1)自己決定
定年後をどう過ごすかは、人それぞれだ。だからこそ、自分はどうするかが問われる。
レールに乗っていれば「定年後」がやってきても同じように充実できる、とは限らない。一人ひとりが、どう過ごすかを自己決定しなければならない。
新しい何かにチャレンジしてみる。それは、仕事に限らない。
寿命が延びたことで、従来よりも定年後の時間は確実に長くなった。人生を2回生きられるわけだ。肉体的にも、まだまだ元気だ。定年までの人生と、それ以降の人生とで、まったく違う生き方をすることもできる。
(2)離婚
定年到来によって、これまで離婚を我慢していた人が爆発するケースは、おおむね女性側の話だ。年金分割制度が、離婚に踏み切らせることもある。
金銭面である程度の保障が得られることになっても、女性自身50代、60代だ。一度も一人暮らしをしたことのない人もいる。60代になって初めて精神的な独立をすることに、不安や迷いはある。
これまで金銭的理由で離婚できない、と自分に言い聞かせてきた。それが、年金分割制度ができたことで、離婚も選択肢に入った。これによる新たな迷いや苦しみが生じる。制度があっても、パッと離婚に踏みきれる人はさほど多くない。60歳という節目で、女性も自立の問題を考えなければならない。
(3)再婚
互いに死別か生別で配偶者がいない、という状況で、昔からの知り合いや同窓会でのシングル同士の出会いが多いらしい。一人でいるよりは一緒に生きていこうか、という友情の延長にあるような再婚だ。
昔と違って、再婚に対する抵抗や心理的な足かせがなくなっている。一人で住むより誰かパートナーがいたほうがいい、とか。情熱恋愛的再婚ではなく、生活のパートナーとしての再婚だ。
互いに歳を重ねているので、若者とは違って、結婚ですべてが開けるとかすべてが変わるとかいう期待はない。相手に求めるものは限定される。孤独感の薄らぎ、もしもの時に誰かがいたほうがいい、くらいの感じだ。
ただ、60歳ぐらいならまだ枯れているわけではない。互いにビジョンをもって再婚したのに、思っていたようではなかった、という人もいる。それまでの人生ができあがっている者同士の同居生活は、新たなもめごとやすれ違いが起きることもある。
(4)老後の不安にどう対処するか
若い人がこれから仕事や結婚をどうしようか、という悩みとは違う。希望や夢に向かっていく、というのとはちょっと違う。できれば考えたくない、目を背けたい、という問題も多い。従来なら、自分が考えなくても子ども世代が何とかしてくれる、国が何とかしてくれる、と考えずにすむシステムがあった。これからは、今までのようにはいかない。
不安要素を認めることが大事だ。漠然たる不安にとどめず、一体自分は何と何に対して不安があるのか、お金と健康だ・・・・などと具体化する作業が必要だ。
具体化して対処できるものは、手を打つのだ。病気になったらどの病院を利用するか、、というふうに情報が具体的になると、もやもやした不安が消え、気持ちが落ち着く。簡単に解決することも多い。病気に対する不安は、利用できる施設や制度が判明することもある。
不安を書き出してみると、解決することも多い。現実に片がつくことは、自分で見つめて、自分で手を打っておくことだ。
葬式の準備にいたるまで、すべてを用意しておいたほうがよいのか、どこまでやればよいのか、考えるときりがない。このあたりは緩く考えるのだ。最悪の場合でもなんとかなるさ、という楽観も大事だ。
(5)親子関係
現在の親世代は、昔のように60歳70歳ですっかり老けこんで子どもの代に家督を譲る、という感じではない。親世代がいつまでもしっかりしていて、子どもは経済的に自立していても心理的には親の庇護下にある、といった状況も多い。戦後の核家族のパッケージのまま、互いに歳をとって、ほかの要素が入ってきていないからだ。
親としても、いつまでも自分たちが頼りになる父であり母であり続けたい、という希望があるだろう。
自分たちの死後のことは子どもたちで考えればよい、と子どもを甘やかしてしまう。歳をとればとるほど、子ども扱いしてしまうケースも少なくないだろう。
厳しい言い方をすれば子どもが自覚するかというと、どうも、そうではなさそうだ。むしろ、勝手に死んでどうしてくれるんだ、なんて言って、親が残した家やカネを食いつぶして生きる。親は、いつかは子どもも目覚めるだろうと期待するが、期待しないほうがよい。
親が70歳、子どもが40歳になってから突きはなしても遅い。子どもを甘やかすなら、徹底的に面倒をみるのだ。
子育ての失敗というより、模索の段階だ。核家族の親世代も、子育てに熱心に取り組んだのだ。子どもの自由を尊重し、親の権威をふりかざさず、仲よし家族で来た。外部の人を入れないで核家族の中で完結するライフスタイルは、失敗というよりも、戦後日本が試みてきた実験ともいえる。
良いところもあった。特に女性は、戦前、姑との確執、大家族の中で苦しんだことがたくさんあった。そこから自由になれた。だから、失敗とは言いきれない。ただ、子どもの自立に関しては、このやり方ではうまくいかないことがハッキリした。
(7)地域との関わり方
ボランティアだけではなく、シニアをビジネス・ターゲットにしたオープン・スクールなどがあってもよい。仕事以外の選択肢が、これまで以上に用意されている。おおいに利用すればよい。
特に男性は、仕事でこれまで培ったキャリアや人間関係と異質な場へ出ていくのは、心理的にかなり大変だ。大会社の重役だった人が、ボランティアに行ったら、急に一人のおじさんとして扱われてプライドが傷ついたりする。年下の人に頭を下げて教わらなければならないこともある。非常に悔しい思いをすることがある。
女性は、あらゆる意味でまだ社会的に弱い立場だから、かえって、自分が尊重されないことにさほど傷つかない。
しかし、自分のこれまでのキャリアが活かされなくても、認められなくても、人間的に否定されたわけではない。たまたまそのジャンルでは素人だったり、新人だったりするだけの話だ。このあたりをどう割りきるか、だ。特に男性は、それまで仕事が生活の大きな部分だったので、この点がわからないと、定年になっても「元○○です」などと言ったりする。「あの人知ってますか」「あの人と私は同期だったんですよ」と人脈に執着する。なかなか「ただのひとりの人間」になれない。
むしろ、頂点を極めた人のほうが、普通のおじさんとしてボランティアする。余裕があるからだ。社長、部長なんて、言われつけているから、むしろ一人の無名の人間であることを楽しめる。
自尊心が完全には満たされていないと、仕事から離れて自信喪失する。自尊心が満たされることだけが幸福なわけではない。自分がやっていることに見合った評価、感謝に目を向ける。そういう喜びもある。
女性は、膨大な自尊心を満たそうとしても、今の社会の制度、会社の中ではできない、という問題もある。食事を作るとか、子育てとかいう生活面では、男性より女性が関わる場面が多い。食事を作ってあげて、おいしい、と言われて喜ぶ。植物を丹精こめて育てたら、花が咲いて嬉しい。このように払った努力が目に見えて報いられ、そのことを素直に嬉しいと感じる。こうしたことで心が安定する、という経験値は、女性のほうが高い。
(8)何かにシフトする
大幅に時間ができることで、これまで抑えていた反動が出てくるケースもある。しかし、突然、ということはない。酒にしてもギャンブルにしても、もととも嫌いだったのに急に始める、ということは余りない。仕事という拠り所を失った不安、老後の心配から目を背けたい、という気持ちから、今までやってみたかったものに逃避することはある。
逃避は悪いことではない。趣味もボランティアも、逃避といえば逃避だ。ただ、酒とかギャンブルとか、自分や周りに被害が大きい場合、逃避として賢明ではない。
逃避というとネガティブだが、何かにシフトするのは悪いことではない。どうせするなら、自分も周りも少しでもハッピーになれるものがよい。
□香山リカ「60歳からの心理学」(一個人編集部『一個人主義』、KKベストセラーズ、2008、所収)
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定年後をどう過ごすかは、人それぞれだ。だからこそ、自分はどうするかが問われる。
レールに乗っていれば「定年後」がやってきても同じように充実できる、とは限らない。一人ひとりが、どう過ごすかを自己決定しなければならない。
新しい何かにチャレンジしてみる。それは、仕事に限らない。
寿命が延びたことで、従来よりも定年後の時間は確実に長くなった。人生を2回生きられるわけだ。肉体的にも、まだまだ元気だ。定年までの人生と、それ以降の人生とで、まったく違う生き方をすることもできる。
(2)離婚
定年到来によって、これまで離婚を我慢していた人が爆発するケースは、おおむね女性側の話だ。年金分割制度が、離婚に踏み切らせることもある。
金銭面である程度の保障が得られることになっても、女性自身50代、60代だ。一度も一人暮らしをしたことのない人もいる。60代になって初めて精神的な独立をすることに、不安や迷いはある。
これまで金銭的理由で離婚できない、と自分に言い聞かせてきた。それが、年金分割制度ができたことで、離婚も選択肢に入った。これによる新たな迷いや苦しみが生じる。制度があっても、パッと離婚に踏みきれる人はさほど多くない。60歳という節目で、女性も自立の問題を考えなければならない。
(3)再婚
互いに死別か生別で配偶者がいない、という状況で、昔からの知り合いや同窓会でのシングル同士の出会いが多いらしい。一人でいるよりは一緒に生きていこうか、という友情の延長にあるような再婚だ。
昔と違って、再婚に対する抵抗や心理的な足かせがなくなっている。一人で住むより誰かパートナーがいたほうがいい、とか。情熱恋愛的再婚ではなく、生活のパートナーとしての再婚だ。
互いに歳を重ねているので、若者とは違って、結婚ですべてが開けるとかすべてが変わるとかいう期待はない。相手に求めるものは限定される。孤独感の薄らぎ、もしもの時に誰かがいたほうがいい、くらいの感じだ。
ただ、60歳ぐらいならまだ枯れているわけではない。互いにビジョンをもって再婚したのに、思っていたようではなかった、という人もいる。それまでの人生ができあがっている者同士の同居生活は、新たなもめごとやすれ違いが起きることもある。
(4)老後の不安にどう対処するか
若い人がこれから仕事や結婚をどうしようか、という悩みとは違う。希望や夢に向かっていく、というのとはちょっと違う。できれば考えたくない、目を背けたい、という問題も多い。従来なら、自分が考えなくても子ども世代が何とかしてくれる、国が何とかしてくれる、と考えずにすむシステムがあった。これからは、今までのようにはいかない。
不安要素を認めることが大事だ。漠然たる不安にとどめず、一体自分は何と何に対して不安があるのか、お金と健康だ・・・・などと具体化する作業が必要だ。
具体化して対処できるものは、手を打つのだ。病気になったらどの病院を利用するか、、というふうに情報が具体的になると、もやもやした不安が消え、気持ちが落ち着く。簡単に解決することも多い。病気に対する不安は、利用できる施設や制度が判明することもある。
不安を書き出してみると、解決することも多い。現実に片がつくことは、自分で見つめて、自分で手を打っておくことだ。
葬式の準備にいたるまで、すべてを用意しておいたほうがよいのか、どこまでやればよいのか、考えるときりがない。このあたりは緩く考えるのだ。最悪の場合でもなんとかなるさ、という楽観も大事だ。
(5)親子関係
現在の親世代は、昔のように60歳70歳ですっかり老けこんで子どもの代に家督を譲る、という感じではない。親世代がいつまでもしっかりしていて、子どもは経済的に自立していても心理的には親の庇護下にある、といった状況も多い。戦後の核家族のパッケージのまま、互いに歳をとって、ほかの要素が入ってきていないからだ。
親としても、いつまでも自分たちが頼りになる父であり母であり続けたい、という希望があるだろう。
自分たちの死後のことは子どもたちで考えればよい、と子どもを甘やかしてしまう。歳をとればとるほど、子ども扱いしてしまうケースも少なくないだろう。
厳しい言い方をすれば子どもが自覚するかというと、どうも、そうではなさそうだ。むしろ、勝手に死んでどうしてくれるんだ、なんて言って、親が残した家やカネを食いつぶして生きる。親は、いつかは子どもも目覚めるだろうと期待するが、期待しないほうがよい。
親が70歳、子どもが40歳になってから突きはなしても遅い。子どもを甘やかすなら、徹底的に面倒をみるのだ。
子育ての失敗というより、模索の段階だ。核家族の親世代も、子育てに熱心に取り組んだのだ。子どもの自由を尊重し、親の権威をふりかざさず、仲よし家族で来た。外部の人を入れないで核家族の中で完結するライフスタイルは、失敗というよりも、戦後日本が試みてきた実験ともいえる。
良いところもあった。特に女性は、戦前、姑との確執、大家族の中で苦しんだことがたくさんあった。そこから自由になれた。だから、失敗とは言いきれない。ただ、子どもの自立に関しては、このやり方ではうまくいかないことがハッキリした。
(7)地域との関わり方
ボランティアだけではなく、シニアをビジネス・ターゲットにしたオープン・スクールなどがあってもよい。仕事以外の選択肢が、これまで以上に用意されている。おおいに利用すればよい。
特に男性は、仕事でこれまで培ったキャリアや人間関係と異質な場へ出ていくのは、心理的にかなり大変だ。大会社の重役だった人が、ボランティアに行ったら、急に一人のおじさんとして扱われてプライドが傷ついたりする。年下の人に頭を下げて教わらなければならないこともある。非常に悔しい思いをすることがある。
女性は、あらゆる意味でまだ社会的に弱い立場だから、かえって、自分が尊重されないことにさほど傷つかない。
しかし、自分のこれまでのキャリアが活かされなくても、認められなくても、人間的に否定されたわけではない。たまたまそのジャンルでは素人だったり、新人だったりするだけの話だ。このあたりをどう割りきるか、だ。特に男性は、それまで仕事が生活の大きな部分だったので、この点がわからないと、定年になっても「元○○です」などと言ったりする。「あの人知ってますか」「あの人と私は同期だったんですよ」と人脈に執着する。なかなか「ただのひとりの人間」になれない。
むしろ、頂点を極めた人のほうが、普通のおじさんとしてボランティアする。余裕があるからだ。社長、部長なんて、言われつけているから、むしろ一人の無名の人間であることを楽しめる。
自尊心が完全には満たされていないと、仕事から離れて自信喪失する。自尊心が満たされることだけが幸福なわけではない。自分がやっていることに見合った評価、感謝に目を向ける。そういう喜びもある。
女性は、膨大な自尊心を満たそうとしても、今の社会の制度、会社の中ではできない、という問題もある。食事を作るとか、子育てとかいう生活面では、男性より女性が関わる場面が多い。食事を作ってあげて、おいしい、と言われて喜ぶ。植物を丹精こめて育てたら、花が咲いて嬉しい。このように払った努力が目に見えて報いられ、そのことを素直に嬉しいと感じる。こうしたことで心が安定する、という経験値は、女性のほうが高い。
(8)何かにシフトする
大幅に時間ができることで、これまで抑えていた反動が出てくるケースもある。しかし、突然、ということはない。酒にしてもギャンブルにしても、もととも嫌いだったのに急に始める、ということは余りない。仕事という拠り所を失った不安、老後の心配から目を背けたい、という気持ちから、今までやってみたかったものに逃避することはある。
逃避は悪いことではない。趣味もボランティアも、逃避といえば逃避だ。ただ、酒とかギャンブルとか、自分や周りに被害が大きい場合、逃避として賢明ではない。
逃避というとネガティブだが、何かにシフトするのは悪いことではない。どうせするなら、自分も周りも少しでもハッピーになれるものがよい。
□香山リカ「60歳からの心理学」(一個人編集部『一個人主義』、KKベストセラーズ、2008、所収)
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