語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】エッセイの定義、モンテーニュ、パレスチナ 

2010年06月16日 | ●堀田善衛
 『文学のレッスン』は、短編小説、長編小説、伝記・自伝、歴史、批評、エッセイ、戯曲、詩の8章仕立てになっている。
 エッセイについては、ジョン・グロスという英国のジャーナリスト的批評家が編纂した『オックスフォード・ブック・オブ・エッセイズ』の序文に次のように書かれてあるよし。

 「エッセイは、いろんな形で、あらゆるサイズで現れる。人間の理解力についてのエッセイもあれば、自分がこのあいだの休日に何をしたかというエッセイもある。真理について書いたエッセイもあれば、ポテト・チップスについて書いたものもある。書評の形で始まるエッセイもあれば、お祈りで終わるものもある。たいていの文学形式と違って、エッセイは定義に挑戦する」

 ここでモンテーニュにふれないわけにはいかない。
 「キリスト教社会の窮屈さに困りはてて、そのなかで何とか自分の本音を吐くためにどうすればいいか、さんざん苦心したあげくにつくったのがエッセイという形式だった」
 ヨーロッパ文学全体からすると、モンテーニュが案出した方法のおかげで人間は非常に楽になった。キリスト教の戒律や世間体を恐れず、それまでの文学の約束(形式美・起承転結・統一感)を捨て、そもそも韻文で書くのが正式な表現という窮屈な約束事を投げうった。「そのとき文学という世界の窓が大きく開けられて、非常に気楽な、自由闊達なことになった」
 セクシュアルなタブーをあっさりおかす一方で、ものすごいこと平気で書いてのける。「公共の福祉のためとあらば、裏切ったり、嘘をついたりすることも必要やむをえぬ。だがこういう仕事は、もっと従順な、融通のきく人々におまかせする」(原二郎訳『筑摩世界文学大系14』)
 「こういう途方もない率直さというか、自分のずるさをこんなふうにすっきりと表現できるというのは、大変な精神だと思うんです。偽善的じゃない。そういうところがモンテーニュという人で、だからエッセイという形式の発明者になれたんでしょうね」

 堀田善衛『ミシェル城館の人』(集英社文庫)の三巻は、まさにモンテーニュが困りはてた「キリスト教社会の窮屈さ」を説ききたり、説き去っている。
 モンテーニュが直面した旧教と新教との対立構造は、現代ではなかみを変えて、イスラエル国家とハマスのような対立構造に見てとることができる。
 イスラエルのアモス・オズのような作家の、あるいはパレスチナから米国に移住したエドワード・サイードのような批評家のエッセイが気にかかるゆえんである。

【参考】丸谷才一『文学のレッスン』(大進堂、2010)
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