(1)大岡昇平は、若年の一時期と旅行中のほか日記をつける習慣がなかった。1970年代のなかば、ものわすれがひどくなったのを自覚して簡単な日録をつけはじめた。これを膨らませ、エッセイとしたのが本書である。初出は、
(a)第1回目:「文學界」昭和55年1月号から12月号まで
(b)第2回目:昭和57年3月号から58年2月号まで
(c)第3回目:昭和60年3月号から61年2月号まで
著者70歳からほぼ6年間にわたる日々を、2回の中断をはさんで、垣間見ることができる。最後のあとがきは77歳の誕生日(昭和61年3月6日)に記された。その3年後、昭和63年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。
(2)『成城だより』の主題は大きく分けて四つ。
(a)社会や身辺の出来事。
<例>KDD汚職、その他官庁公団のカラ出張、カラ接待、カラ超勤手当のこと(昭和54年11月14日)。あるいは大江健三郎が武満徹の新作レコード「イデーンⅡ」(裏は「ウォータ、ウェイ」「ウェイヴズ」など「水についての音楽」)を土産に訪問のこと(昭和54年11月13日)。
日記とはこういうものだろうが、一種独特の私小説として読むことも可能だ。言葉を節約するため採用した文語は、それまでの大岡昇平の私小説にはない味わいを醸しだしている。私小説だから、研究家にとっては晩年の大岡昇平の起居を知る格好の資料となる。さらに、昭和史の一時期のトピックを知るよすがともなるのは、「今日の出来事」に対する老作家の飽くなき好奇心のおかげである。
(b)加齢による身体的機能の低下。
<例>「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」(昭和54年11月13日、「音楽」は先に引用した武満徹のレコードを指す)。
これは、高齢者による高齢者の万民のための自己観察だ。若年時から自分を冷徹に見つめて分析し、客観的に記述してきた大岡昇平のこと、自分の身体的衰弱に対しても態度は変わらない。白内障手術うんぬんは、嘆き節と受け取られそうな文面だが、高齢者即虚弱な存在とする社会通念に毒されている読者向けの自己卑下的サービスだ。かえって、老いた肉体に対抗するかのように、いつまでも若々しく知的好奇心に満ちた大岡の精神が際だってくる。身体が健康な高齢者は、自分の行く末を予想する手がかりになるし、身体虚弱な高齢者は、アランのいわゆる「魂は物質に抵抗するもの」という教えの、大岡昇平ふうの実践に鼓舞されるだろう。
(c)仕事。作家だから書くこと。
『富永太郎全集』の編纂および「堺事件」の再構成への取りくみ。この二つの仕事は、本書を書いたころ、徹頭徹尾、常に大岡の意識の底にあった。このほか、新刊書の校正があり(『フィクションとしての裁判』)、旧著の再刊にあたって手直しがあり(『ハムレット日記』ほか)、岩波書店版著作集の刊行があった(『事件』に50枚加筆修正ほか)。短い雑文は数知れず。
昭和61年の簡易生命表によると、当時の男性の平均寿命は75.23歳(女性は80.93歳)だ。要するに、もういつ死んでもおかしくない年齢だった。体力低下と余命わずかという意識から、仕事を絞り、積年の課題にけりをつけようとしたのだが、仕事は大岡昇平が選んだものだけで終わらなかった。ほかの仕事が大岡昇平を選んだからだ。ために、『富永太郎全集』は大岡昇平の生前には結局刊行できなかったし、『堺攘夷始末』は未定稿のまま絶筆となった。常に現在を生き続けた作家にふさわしい壮絶な尻切れトンボである。
(d)読書。
半端ではない。小説や評論はもとより少女漫画から高等数学まで読みまくっている。ジャック・ラカン『エクリⅢ』ほか、当時流行の思想も丹念に追っている。
老いてますます盛ん、の「盛ん」なのは、大岡昇平の場合は知的好奇心だった。たとえば、数学は推理小説とならんで、大岡の終生変わらぬ「道楽」であった。大岡の論理癖は数学で鍛えたらしい。スタンダールは複素数を知っていた、スタンダールにとって現実と芸術の関係を実数と虚数の関係になぞらえていたのではなかったか、という指摘もある。こうした蘊蓄を傾けて、桑原武夫・生島遼一共訳『アンリ・ブリュラールの生涯』(岩波文庫。人文書院版全集も同じ)の誤訳を指摘したりもする(昭和57年1月30日)。先輩への礼をつくしながらも、「数学少年スタンダールの沽券に関わる重要な箇所」だし、スタンダール生誕200年を翌年に控えているから黙っていられない、と気張る。微に入り細にわたる考証は大岡昇平の面目躍如で、ちっとも年齢を感じさせない。
(3)『成城だより』は、要するに、一作家の生涯かわらぬ旺盛な知的好奇心、晩年の仕事に対する若々しい意志、そして自他に対する公平なまなざしを見事に証する記録である。
□大岡昇平『成城だより』(文藝春秋社、1981)、『成城だよりⅡ』(文藝春秋社、1983)、『成城だよりⅢ』(文藝春秋社、1986)、後に『成城だより(上下)』(講談社文芸文庫、2001)
↓クリック、プリーズ。↓
(a)第1回目:「文學界」昭和55年1月号から12月号まで
(b)第2回目:昭和57年3月号から58年2月号まで
(c)第3回目:昭和60年3月号から61年2月号まで
著者70歳からほぼ6年間にわたる日々を、2回の中断をはさんで、垣間見ることができる。最後のあとがきは77歳の誕生日(昭和61年3月6日)に記された。その3年後、昭和63年12月25日に大岡昇平は鬼籍に入る。
(2)『成城だより』の主題は大きく分けて四つ。
(a)社会や身辺の出来事。
<例>KDD汚職、その他官庁公団のカラ出張、カラ接待、カラ超勤手当のこと(昭和54年11月14日)。あるいは大江健三郎が武満徹の新作レコード「イデーンⅡ」(裏は「ウォータ、ウェイ」「ウェイヴズ」など「水についての音楽」)を土産に訪問のこと(昭和54年11月13日)。
日記とはこういうものだろうが、一種独特の私小説として読むことも可能だ。言葉を節約するため採用した文語は、それまでの大岡昇平の私小説にはない味わいを醸しだしている。私小説だから、研究家にとっては晩年の大岡昇平の起居を知る格好の資料となる。さらに、昭和史の一時期のトピックを知るよすがともなるのは、「今日の出来事」に対する老作家の飽くなき好奇心のおかげである。
(b)加齢による身体的機能の低下。
<例>「白内障手術してより空間感覚かわり、その上、椎骨血管不全、つまり立ちくらみあり、よろよろ歩きにて、コンサートに行けず、音楽のよろこぶべき来訪なり」(昭和54年11月13日、「音楽」は先に引用した武満徹のレコードを指す)。
これは、高齢者による高齢者の万民のための自己観察だ。若年時から自分を冷徹に見つめて分析し、客観的に記述してきた大岡昇平のこと、自分の身体的衰弱に対しても態度は変わらない。白内障手術うんぬんは、嘆き節と受け取られそうな文面だが、高齢者即虚弱な存在とする社会通念に毒されている読者向けの自己卑下的サービスだ。かえって、老いた肉体に対抗するかのように、いつまでも若々しく知的好奇心に満ちた大岡の精神が際だってくる。身体が健康な高齢者は、自分の行く末を予想する手がかりになるし、身体虚弱な高齢者は、アランのいわゆる「魂は物質に抵抗するもの」という教えの、大岡昇平ふうの実践に鼓舞されるだろう。
(c)仕事。作家だから書くこと。
『富永太郎全集』の編纂および「堺事件」の再構成への取りくみ。この二つの仕事は、本書を書いたころ、徹頭徹尾、常に大岡の意識の底にあった。このほか、新刊書の校正があり(『フィクションとしての裁判』)、旧著の再刊にあたって手直しがあり(『ハムレット日記』ほか)、岩波書店版著作集の刊行があった(『事件』に50枚加筆修正ほか)。短い雑文は数知れず。
昭和61年の簡易生命表によると、当時の男性の平均寿命は75.23歳(女性は80.93歳)だ。要するに、もういつ死んでもおかしくない年齢だった。体力低下と余命わずかという意識から、仕事を絞り、積年の課題にけりをつけようとしたのだが、仕事は大岡昇平が選んだものだけで終わらなかった。ほかの仕事が大岡昇平を選んだからだ。ために、『富永太郎全集』は大岡昇平の生前には結局刊行できなかったし、『堺攘夷始末』は未定稿のまま絶筆となった。常に現在を生き続けた作家にふさわしい壮絶な尻切れトンボである。
(d)読書。
半端ではない。小説や評論はもとより少女漫画から高等数学まで読みまくっている。ジャック・ラカン『エクリⅢ』ほか、当時流行の思想も丹念に追っている。
老いてますます盛ん、の「盛ん」なのは、大岡昇平の場合は知的好奇心だった。たとえば、数学は推理小説とならんで、大岡の終生変わらぬ「道楽」であった。大岡の論理癖は数学で鍛えたらしい。スタンダールは複素数を知っていた、スタンダールにとって現実と芸術の関係を実数と虚数の関係になぞらえていたのではなかったか、という指摘もある。こうした蘊蓄を傾けて、桑原武夫・生島遼一共訳『アンリ・ブリュラールの生涯』(岩波文庫。人文書院版全集も同じ)の誤訳を指摘したりもする(昭和57年1月30日)。先輩への礼をつくしながらも、「数学少年スタンダールの沽券に関わる重要な箇所」だし、スタンダール生誕200年を翌年に控えているから黙っていられない、と気張る。微に入り細にわたる考証は大岡昇平の面目躍如で、ちっとも年齢を感じさせない。
(3)『成城だより』は、要するに、一作家の生涯かわらぬ旺盛な知的好奇心、晩年の仕事に対する若々しい意志、そして自他に対する公平なまなざしを見事に証する記録である。
□大岡昇平『成城だより』(文藝春秋社、1981)、『成城だよりⅡ』(文藝春秋社、1983)、『成城だよりⅢ』(文藝春秋社、1986)、後に『成城だより(上下)』(講談社文芸文庫、2001)
↓クリック、プリーズ。↓