どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

パラダイムシフトだよね

2016-12-26 21:43:27 | 日記

 

高松の池に薄氷が張った。これだけで水鳥の世界は変わる。

 

 

鳥は目がいいはずなのだが、薄氷と水面の境がわからないのか。はたまた風の具合か氷の上に着地してしまうドジっこがいる。今日は飛んできて着水しようと思ったら思いっきり滑って、背中で着地したキンクロハジロがいた。

でもそれもまた可愛いんだよね。



白鳥を砕氷船にして、カモ類が進んでゆきます。こういったときにはジャイアンは頼もしいです。



氷が張っただけで、すぐ溶けるものですがそれだけでも行動は変わってゆきます。体温のことを考えれば水上はいいことがありません。でも陸上は危険がいっぱいです。池の氷上はかなり安心できる場です。特に薄氷は絶対陸上生物が来ません。でも突然落っこちたりパニックに陥りやすいです。



薄氷を踏むエネルギーを使うならと、水と氷の境目で鳥は飛びます。



水鳥のようなものだと単純な変化だけで済みます。。

 

 

物理的、心理的障害だけだからです。

 

 

今現在起きているパラダイムシフトの本質がまだわかっていません。でもこの薄氷のようにほんの少しが結果を生みます。

 

 

 

消費社会のパラダイムシフトと今のシフトがわかりにくいところがある。単純な多様化だと思われていたのが、インターネット技術で操作できるようになった。それもこの前までは限定的だったのに、デマを流出させる技術が、いや単純なのだがこれをロシアが証明した。

それ以外にもISの情報戦略など、今までにあったことがネットを使ったのを応用しただけとも言える。

 

 

今のパラダイムシフトで一番試されているのは、韓国だ。確かに国民国家の民主主義資本主義なのだが、明らかに歪んでいた。だが彼らが今望んでいるよう革命的社会主義革命は果たして正しいのか

 

 

清廉潔白な独裁者を求める今の気分は、明らかなパラダイムシフトだ。だがその存在はあり得ないとわかっているのに求めるその気分は、気分でしかないのだ。

 

 

氷は溶けながら漂流し、鳥が砕きながら、隙間を通りながら、風で西に流れてゆく。

ポストモダン理論の最大の欠点は、暴走することを予見しながら、暴走を容認したことかもしれない。

ただ資本主義と思想世界の相思相愛は、なくなった。

次というのはあるのだろうか。


走れ!オオバンon薄氷

2016-12-26 16:04:58 | 日記

 

高松の池に薄氷が張りました。こういったときはなかなか変なものがみれます。

 

 

走ろうとしたオオバン君。

いつもは水面を足でつかむのですが、いきなり滑ってしまいました。



着地失敗。よたっています。




オオバンの千鳥足。




諦めました。




しばし呆然としております。こういったときの鳥に表情は面白いものです。



氷上かけっこです。



うわ!氷が割れます。



何が起きたかよくわからないようです。



それでも走るオオバン君です。



氷は夕方にはかなり溶けました。明日からは雪の予報です。白だと水面と氷の区別がつきやすいのか、こんなアホな光景は見られないのが残念です。


クリスマスですな

2016-12-26 01:07:22 | 日記

 

今日からクリスマスです。1月6日までみなさん頑張りましょう!我々にはこれにくわえて大晦日もお正月もありますし、七草がゆもあります。大変です。ちょっと物知りの生真面目な人だったら、家の前には門松があって、中にはクリスマスツリーが飾られている家なんかあるかもしれません。いやないかな。

 

 

今日は録音していたバイロイト音楽祭16のトリスタンとイゾルテを聞いた。いやこれはいい演奏だった。さすがティーレマンとしか言いようがない。もう全休符が素晴らしかった。音がないのが音楽を極めるとしか言いようがない。今年のバイロイトは他の演奏も素晴らしかったが、これは白眉だろう。

とはいえザルツブルグにおけるカラヤンが帝王になったように、ティーレマンがバイロイトの帝王化してきたのがきになるところだ。

この二人師弟関係だったから、なおさらだ。

 

 

まあ後は花に水やりをしたくらいか。

カフカの「審判」を読み始めた。これほど夢中になれない本もないけど、生活を阻害しない程度の力の本も珍しい。実際3度目だが、やっぱりこの話のストーリーは全部忘れていた。

 

 

クリスマスなので少しは宗教のことを考えたい。とはいっても今年読んだ「歎異抄」は仏教の本だ。しかも真宗だからかなり違うとは思う。だが本質は同じだと思う。信仰とは身を投げ出すことなのだ。だがそれは現世では叶わない。ましてや俗人では叶うことはない。生きなければならないからだ。にわか作りの上人様を、船に乗せて西海にある浄土への送り出しで、自分たちのお導きにしようというのは、全くの間違いだ。人の命と交換する商業主義だ。

キリスト教もイスラム教も、テキスト主義の人たちは往々にして同じ間違いをする。キリストが復活するとすれば、もしかするとクリスチャンのイヌイットかもしれない、その可能性を科学的に考えた結果、イスラエルに住むユダヤ人でしか起きないと盲信する。信仰に人の知恵が入った時点で疑うべきだ。それはいつどこかで、もしかすると異教徒に現れるかもしれないのだ。

預言者と同じ行いをすれば救われるというのも、間違った考えだ。戦った預言者はやむなく戦ったのであって、戦いたいとは思わなかったはずだ。相手が戦ってきたから戦っただけだ。その意味を忘れ、女性保護のもとに乱暴を働くのは、それはすでに異端なのだ。それに気がつかないというのは、すでに狂信であるということなのだ。

「歎異抄」で特徴的なのは、親鸞ですら救われないと思っていることだ。自分の悪行を自覚できる悪人の方がまだ救われると言い放つのだ。悔い改めたら悪行ゆえに救われないことが明晰にわかる。だから仏に縋り付くしかない、いやしがみつくしかない。それしか救われることがなければ、それしかないのだ。その極地には誰もが立つことはできない。親鸞は自分にはそれができないと自覚している。理由は教団で祭り上げられてしまったからだ。弾圧されようが教えを残すための努力は、彼自身には救いにならないのだ。

宗教の本質は自分が救われると思わないことだ。その絶望とのせめぎあいのなかで信仰が本来の姿だ。すがりつくのだ。それしか方法はないのだ。

自分が救われた、もしくは救われたと勘違いした人が大体間違いを犯す。それが今の世界だ。

 

 

手にあかぎれができた。クリームを塗ったらグイグイ肌が吸ってゆくのは、少し嫌だった。