ミニひまわりが咲いた。
強化週間と行っても4日間だけだし、結局合計8500メーターしか泳がなかった。いや泳げなかった。今日はもうなんだか腕がだるくて、最大パワーを出せない感じだった。そうなったら基本に戻ったりリズムを考えたり、そうすればいい練習になるわけで、よくいえばムダな力の入らないトレーニングで、悪くいえば不真面目な態度となる。
大会に出るわけでもないのになんでこんなに泳ぐのかといえば、養老孟司的にいえば脳に体を確認させるためだ。とても重要なことだと思う。だから真面目なフォームが必要だし、逆にそれができないから指先から手のひら、肘から腕から肩から、背中から尻も足も、神経を可能な限り張りめぐらせる。タイムを計測するのは、それがうまく行っているかどうかを見るためだ。うまくやっているつもりでもタイムが出ないことは多い。思いっきり力泳したとしても、タイムが出るわけではない。ごく単純なテクニックの積み上げ方が水泳で、なおかつ日常的な動きではないのでそこがわかりやすい。
わかりやすいと行ったが、現実には全然わからないことだらけだ。わかっていればもう少し合理的なトレーニングもできるのだろうが、日々私は違うわけで、4日間のうちうまく行ったのは100メーターあるだろうか。
大脳皮質には体をどう動かしたのかという総合記録は残らない。問題は小脳で、体を動かすシステムがここにある。歩くとか走るとか、そう行った運動のために各筋肉をどう動かせばいいのかというのを、赤ん坊の頃から蓄えてきている。その中で様々な動きを記録して統合した命令コードで一つ一つを格納している。大脳はそれを修正しつつ現実の動きにする。繰り返し練習することで小脳にある命令コードが書き換えられてゆく。もしくは上位の新しい命令コードができる。ただ古い命令コードが優先して残るので、後のコードは練習しないと早くに消える。
ただ体を取り戻すということは、また別なことが必要になる。ムダをどこまでできるかだ。特に水の中だと体が自由になるので、これほどムダな動きができるところも少ない。水中で横回転とか縦回転とか、子供達が無目的でプールで泳いでいるのと同じことが本当は大切だ。
体をどう動かすのかというのにチャレンジする、それは競技だともうどうしようもなくできない。遊びとかくだらないところでどうできるのか、そこが大切だ。エリートはトライアスロンやマラソンが必要だという人たちがいる。確かに体を取り戻し頭を切り替えるには、過酷なスポーツはいいだろう。だが、結局順位を求めるだけになってしまえば、体を奴隷にするだけになってしまう。
だから屋外プールっていいんだよ。
ということで今日の気温は大体24度から25度、だが水温は27.5度。ダラダラできない環境にあります。さっきまで言っていたことはなんのことか、マジメに泳ぐしかないですね。陸で休むのも時間限定です。硬軟織り交ぜて泳いだのですが、環境が環境ですのでムダが許されない。いや多少はしましたけど、屋外プール特有の水の重さもあって1時間半で2000メートルというのは、私にとってハードでした。
インドの牛情報があった。これは面白い。まずヒンドゥー教徒は牛を聖なるものとして扱い、殺してはいけないものだ。ただし日本人から見たら同じ牛なのだが水牛はそうではないようだ。
さてとっても不思議なことに、インドでは牛肉の輸出量が世界一になった。だがここに厄介なことがあって、インドの統計ではなくアメリカの統計なのだ。というか人口の8割がヒンドゥーの国で、牛のが日常であるというのは認めにくいだろう。統計がないか不備なのではないのか。その上アメリカの統計は牛と水牛を区別していない。さらに牛の皮では、業者によるとかつては牛と水牛の比率は半々だったのだが、今は8割が水牛だという。次にいうミルクの生産の増大を考えれば、少しおかしい。
インドは牛乳の生産で世界トップレベルだ。その中には水牛の乳も入っているのでこれがまたよくわからない。ただここでは乳を出さなくなった廃牛がいるはずで、それがどう屠畜されているのかの実態がよくわからない。
とりあえずインドには1億9000頭の牛がいる。アメリカで9000頭なのに、この数ではどこかで屠畜が大々的にあるはずなのだ。インドは連邦制なので州によっては牛の屠畜が許可されている。コルタカなどの5州がある。その他の州でも例外規定はある。
「コルカタなど牛を殺すことが違法とされていない地域では、その牛が12~14歳であるか、あるいは繁殖能力がなかったり乳を出すことができなくなったために「に適している」ことを証明する文書が必要になる。だがこの規則もしばしば変更されるという。」
ヒンドゥー教から見れば許されない事態なのだが、これがまた古くからあるものなのだ。だから規則が変則的でわけがわからないことになる。確かに屠畜業にはイスラムが多く関わってきているが、肉や皮革の流通にはヒンドゥーが関わっている。
しかもだ、牛乳の普及は白い革命とも言われ、インドの子供達の栄養状態を改善して死亡率を下げた。牛乳の生産は増大したのだ。牛が多いのは正しいのだ。聖なる牛の頂き物なのだ。
それでは廃牛はどうするのかということになる。そのシステムはヒンドゥーには全くない。あることはあるが、総生産数からの受け入れ能力はないだろう。
インドのヒンドゥー主義はどこまで合理性を持てるのだろうか。モディ首相はヒンドゥー主義なのだが、多分彼は合理的に考えるだろう。だがそれ以外のヒンドゥー主義者はどうなるのだろうか。
日本にもこう言った例外があるのかどうか、知りたくなった。多分あるだろう。それはパチンコやの話ではなく、全く別なところにありそうな気がする。
今年は多分屋外プールで泳ぐということはないだろう。だがあの水のニュアンスはもう少し覚えたかったな。
水も日々それぞれなのだ。