つまらない日々をどのように盛ってもつまらないものだ。かっこいいことを言おうとしても限界はある。だがな、何か言いたくなるメモみたいになってきている当ブログだ。しかし民進党の解体のような、最近の曖昧な領域はどうも言葉が長くなりすぎて、そうするとこうしてどう読めばいいのかわかりにくい文脈になる。
で、この時点でわけがわからない。
ベンツのゲレンデヴァーゲンに人が乗り込んで発車するまでをみた。ドアを開けるとルームライトが着く。そしてドアを閉めても消えない。エンジンをかけるとルームライトは消える。
古い車だが随分便利なシステムだ。当時の日本車はドアを閉めるとルームライトは消えた。今は遠隔操作でエンジンアイドリングを行い、ルームライトは着き(設定で何かできるのだろうか)、ドアを開けて中に入るとルームライトは徐々に消えてゆく。
確かに今の日本車はその通りでかなり上質な演出はできているが、人の意思決定という考えではゲレンデヴァーゲンの方が合理的に感じる。
泳いだが、少しだけ微妙だった。左肩が痛い。フォームチェックのみになった。
隣のレーンでは例のごとくお父さんが子供に水泳を教えていた。だが何か少し雰囲気が違う。子供が全く真面目ではないのだ。
話を聞いてみたら、子供は25メーター泳げるといったらしい。そして習っているというのだ。で、お父さんもお母さんもその話を疑ったのだ。それではとやらせてみたら泳げないということで、なんじゃいなとなったようなのだ。
基本的に小学校2年生程度だったら水遊び中心のメニューで、水に徹底的にならす方向で行きますんで、大丈夫ですよといっておいた。
子供は盛りに盛って、遊びたかったんだろうね。多分これが本当だろう。プールに誘い出されたのだ。
水泳は基本的に家族で教えてはいけない。子供は水で遊びたくなるのだが、家族が教えたがるとそれはえらくつまらないものになる。甘えてくるのを拒絶するのも良くない。なので他人が一番いい。だが方法論としては徹底的に子供の遊びに付き合うのがいいのだが、大人は合理的な判断をしがちだ。単位時間あたりの効率となるのだが、目標も目的もない子供には、一番意味がない。
真面目にいうが、本当に泳げるお父さんは子供に泳ぎを教えない。ひたすら遊ぶのだ。こちらが多分正しい。
現世に何にも考えていないというのは、実はキリスト教だ。仏教というのはその意味で真逆で、現世で頑張らないと解脱できない。来世は虫になって踏み潰されるとかそういったのを避けるために功徳を積む。偉いお坊さんに自分でできないから寄進する。来世でもあなたは立派な方だから私らを救ってくれるし、仏への導きをしてくださる。
キリスト教であるのはその時代のその時の考えでしかない。
日本人は個人の生死感がないというのがある。人はあるものでしかない。そうあるものだ。それは時間軸のない概念だ。常にいる。人は必ず死ぬ。
結論が欲しい方には簡単にいう。神を言い訳にしている社会は相当おかしい。
なぜなら日本の神道がカオスだから。歴史的にもね。復古主義は今の復古主義でないと成立しない。
合理性が破綻した社会という状況が、もともと非合理生だった社会を救済できるわけはない。