どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

十五夜

2017-10-05 00:57:28 | 日記

 

今日は午前中から曇りで、とても肌寒かった。2時頃から日差しが出てきても、最高気温14.6度までしか上がらなかった。

 

 

仕事柄様々な現象を観察し、それを結果に出すということをしている。写真というのはそうゆう仕事だ。単にいまあるのを切るだけのとは少し違う。空気やその力学を見極めておかないと、未来に残す意味がないわけだ。それはセンスなり感覚的なところもあるが、ある程度は理論化しておく必要がる。そこでコジェーヴのポストモダン理論の中回帰説が重要だ。そしてそれを解説した東の「動物化するポストモダン」だろう。ただこの理論が最近当てはまらなくなってきた。「大きな物語」の復活というべき、古層の復活だ。

延々と続くかもしれなかったポストモダン状況は、ある一点から明快に崩れ始めた。リーマンショックだった。世界の右傾向かというのはこの時から明快になっている。つまり世界のエリート達は世界を破滅させることはあっても、導くことはしないのだという、アメリカで未だ信じられているトリクルダウン効果も彼らは決してしないというのがわかったわけだ。我々は世界から搾取されている。そして共産主義に向かっても搾取される。この現実が古代国家とか民族主義や宗教過激派に人を向かわせている。

ただこういった思想が突然現れたものではない。例えばネトウヨは小林よしのりの漫画からの影響が大きいだろう。そしてネトウヨの多くが実は50代から40台という分布なのも、彼の漫画が最も影響力のあった時代に育った世代だと考えれば頷ける。実際に宗教過激派もかなり古くからその種は蒔かれており、民族主義は同じく古い。世界が人を救わないのなら、国家が国民を守るべきで、その国家とはどういった形なのかということで、古代国家にたどり着く。

ただそれらの言説も、例えばイスラムのようにコーランやハーディースからの恣意的な引用で強引な解釈をするように、ポストモダン的である。近代の否定というべき言説だ。近代が成し遂げた秩序を解体しようという作業に見える。本能的で暴力的でもある。これが私のいう、大きな物語の復活だ。

ちょっと逸脱するが、白人優位主義者がナチスを引用するが、ナチスは様々な悪を行なった。それが現代で否定されているから彼らはナチスを引用するのだが、ヒットラーは古代ゲルマンを引用しただけだ。実はかなりねじくれた構造にある。復古ドイツから引用された純粋ドイツ人思想が白人優位主義であり、それをアメリカ人が引用するのは本当はためらったほうがいい。

その意味では、ネトウヨも日本を礼賛するときの秩序や礼儀も、中国からの儒教思想が大きく影響していることを考慮すべきだろう。

 

 

大きな物語の復活は、書物ではない。SNSから起きている。SNSで起きる共感や賛同のムーブメントはまさしく中回帰説なのだが、その中にこの古層を掘り起こすような、言説が入るようになってから目立つようになった。

これは当然で、なんで私は貧しいのとか苦しいのとか、認められないのとか様々な欲求がある中で、相対化された国家の、スゥエーデンは税金高いけど高福祉で今の苦しみはスゥエーデン人だったら解決しているのに、とかアメリカ人だったらもう少し呼吸しやすいのかなとか、でもズブズブの日本人で日本から出ることは考えられないしできないし、なんで?という人たちにはとてもよく響く。

なおマイルドヤンキーというのはその古層を積極的に選択した層とも言える。ただこの層に入り直すのは大変な努力がいる。地域の歴史から人脈まで把握しないといけない。なので地元民になかなか認めてもらえない。そして、マイルドヤンキーの古層は、本質的に同族意識になるので、ネット系にはあまり左右されない。

SNSの世界では情報がものすごく増えた。その少し前のネットとブログの世界より半端でなく広がった。

実はここからがポストモダン的ではなくなるのだ。ポストモダンは選択の世界だった。だがここから先は選択ができないことになるのだ。情報量が多すぎて、展開が早くなりすぎたのだ。

SNSから人の考えを検索する世界が始まった。それは悪いことではない。現代のシステムの報道や政府に問題があるから口コミの方が正しい可能性はある。だがそれを選択するという行為で世界を狭める可能性がある。で、見えちゃったのがSNSでの誘導やステマだ。そして3.11のフェイクニュース。それだけではない。インスタグラムのキラキラした生活の人やすげーチャレンジっぽい人とかの裏側までSNS検索で出てしまう。

ネットの正しい利用方法ってなんでしょうかね。油断しちゃいけない。この時点でもうなんか嘘くさい。

時系列的にはおかしいがLINEが柔らかいネットワークとして広がったのだが、繋がり続ける煩わしさという問題が出てしまった。

で、社会というのから切り離された個というのが存在しつつある。ネットワークの社会も恐ろしく面倒なものになりギリギリの状況にある。そしてフェイクニュースやらなんやら玉石混合の世界で、いや実生活すらもSNS対応のキラキラした人たちの裏が見える状況では、繋がりが個を認識させるだけになる。だがSNSが増大すればするほど、実社会のリアルはどうでもよくなる。いや、SNSすらも対応しない。

個が孤立する社会、それは近代の啓蒙主義の理想だったのではないのか?実はその通りなのだ。ただし彼らは個が独立すると言ってはいたがね。そこまで社会が分断されるとは思ってもみなかったのだろう。

表面的に見えている量産系女子の問題は、実は大きい。孤立した個人の選択できることはかなり狭いのだ。

いやいやそれは近代主義の理想的状態なのだがね。個人の確立なのだ。だが現在では、個人の孤立であり大きな物語が求められる理由にもなっている。

 

 

今年の十五夜は、暦の都合で満月ではない。

世の中そう言ったもんだ。