どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

カエルがでない

2015-03-27 23:09:07 | ガマ合戦

 

ヒキガエルがいつでるのかを観察している。今年は暖かいせいかどうか全くわからないのだが、どうも昨年まで使った指標が当てはまらないようだ。とはいってもそれは2年間のデーターなので3年目に当てはまったとしても、今年にあっているかどうかはわからない。

予想より遅れているのにヤキモキしている。地温変化だとしてももう出てもおかしくない。だがまだ出ない。

 

 

カエルの代わりに泳ぎに行く。タイムが悪かった。

 

 

相変わらずこの自販機の自己主張はなんとも言い難い。ここにいるぞという感覚がある。何しろT字路の真ん前にあるから。

 

 

クラシックの指揮者や演奏家について、様々考えることがある。なぜこんなに演奏技法が発達しているのに指揮法もマネージメントも発達しているのに、フルトヴェングラーを超えていると誰もを屈服させる演奏は少ないかということだ。いやこれは本質的にはどうでもいい話だ。人それぞれの好みでいいのではないのか?それはそれでいい。だが神話というのだとすれば、それはどうもおかしい。

そのもどかしいものを考えているのだが、全然結果が出ない。だたわかっているのは近代と現代の橋渡しにいた指揮者だったということだ。

現在録音でまともに聞けるのは1940年以降、大体のところ1955年以降だろう。ライブ版だと1965年でも怪しい録音がある。だから過去の大演奏家の録音でも、ピアノとか室内楽だったらなんとかなるが、オーケストラになると再現しているとは言えない録音が多い。その上テープからの生起こしではないデジタルマスタリングも多い。そうなると当然音は痩せ細る。だがある意味忠実になる。

マクルーハンのいうクールメディアはテレビだった。情報量が少なくて乱雑な世界、だから人は集中してみるのだ、というのがあった。それと同じのがクラシックの昔の録音にもあると思う。音が悪いから集中して聞いていた、というのはあると思う。

それが手軽に聞けるようになったのがデジタルのいいところだ。だがこうやってクラシック廉売の嵐に付き合うと、本当のところはなんなのだろうかと思う。歴史的経緯や民族や様々なバックグランドがある上での何かがあるのであって、今現在でのグローバル化されたクラシックの世界とは違う何かがある。その何かを賛美しても再現できないというのは明快になっているのかもしれない。

その前に曲解釈が時代によって変わっているのが面白い。録音の問題もあるが新しいほど確実に美しくなっている。逆に古楽器演奏法のように汚くなるかもしれないというのも、研ぎ澄まされた形で残っている。

 

 

だがカエルはまだでてこない。

 

 

ジュウガツザクラは咲いたのに。

 

 

高松の方で家の軒先でスイセンが咲いていたのはビックリした。

 


メンゲルベルクを聞きながら

2015-03-26 01:36:04 | 日記

 

メンゲルベルクといえばあの極端なルバートと、弦のポルタメント奏法のデロデロな演奏で有名だ。そして以前聞いたデジタルマスタリングのCDもそうだった。だからこの廉価版のボックスセットに極端な違和感を感じている。マトモな演奏にしか聞こえない。むしろ明晰な頭脳すら感じられる。ルバートも少し間を伴っているし、ポルタメントもむやみやたらと出てくるわけではなく間を作るためか、接続のためにあるように感じられる。話芸のように感じられる。必要に応じてポルタメントをかけるといったほうがいいだろう。まあとにかく音楽を流さない指揮者だ。溜めたというべきか止めたというべきか、だから必要だったのだろう。

なんでこうなるのだろう。以前聞いたムチャぶりは聞こえてこない。デジタルマスタリングを丁寧にやった結果なのだろうか。そして未発見のテープがあったのだろうか。

それはないようだ。いつも通りのレコード再生のプチプチや明らかに盤が潰れているところも聞こえる。要はマスタリング技術が20年間で格段に進歩したということなのだ。そしてそれ以前にあったSPのイメージやモノラルLPのイメージから離れて丁寧に処理したのだろう。しかし多くの場合徹底しすぎて音が薄っぺらになることもある。この版はその嫌いを少し感じる。それでは以前のイメージはどうだったかといえば中音域を重視していたように感じる。それはSPの音のイメージと同じだが別な考えもある。

わざと客席からのノイズを残したかったのではないのか。そうマタイ受難曲、あのドイツ軍侵攻の前日の録音だ。客席からはすすり泣きが聞こえる。たしか嗚咽に近いすすり泣きだった。この版でもそれは残っているが、昔聞いた時よりは印象は弱い。

以前のリマスターはすすり泣きを強調するようにリマスターしたのではないのか、そう疑問が起きている。

磁気テープによる録音は1935年に発明され、38年には実用化していたようだ。メンゲルベルクが録音を残している39年と40年はその時期に当たる。だが当時のテープは高価だったのでよほどのものでない限り次の録音に使われていただろう。なのでレコード原盤か生産用の方しか残っていないだろう。それらが使われるようになったのは多分90年代まで進まないとできなかったと思われる。原盤再生用のカードリッチが存在しなかったからだ。原盤再生用のカートリッジはCDでのリマスタリングが行われるようになって開発された。今では光学読み取りまであると思うがそれ以前はテープがなければSPから再生してマイクで拾うしかなかった。その際のノイズを消すために高音域を切ったのだろう。レコードの傷を消すためには低音も切らなければいけない。そうして中音域を厚くする音へ、さらに変わってしまったのだろう。そしてカッティング時の回転むらまでそのままだった可能性がある。

その時の音質が初期のCDに反映されたのだろう。

そう考えれば、何が正しい音なのかよくわからなくなる。ただこのデッカのボックスセットの音は正しさに近いように感じる。思えばあんなに弦が鳴り響くオーケストラというのはない。メンゲルベルクはどうも録音でかなり損をしているように感じられる。やはりマタイ受難曲の印象は大きすぎるだろう。

 

 

こうして過去の巨匠たちを聞いてゆくて、少し変な考えが起きる。彼らが今のオーケストラを振ったらどうなるのだろうか。多分なのだが自由自在すぎて困ってしまうのではないのだろうか。メンゲルベルクのあのルバートやポルタメントにも瞬間的に対応するのではないのか。

現実的に20世紀に入ってからクラシックの演奏者のレベルは常に右肩上がりだ。ピアニストに到っては昔っから天才が出てきたが、その天才レベルが気の狂ったレベルになっている。録音とライブがほとんど同じ演奏をするというのは当たり前、パフォーマンスも大切だしルックスも必要。ルックスもパフォーマンスも出来なければそういった人は神がかったオソロシイ演奏をするしかない。

そして確実に技術は上がっている。歌手のように天才が必要な部門は別にして、ピアノで18歳でラフマニノフのピアノコンチェルを弾きこなして全日本音楽コンクール1位という男も現れた。弦だろうが木管だろうが金管だろうが現実にレベルアップしている。それは日本だけではない。少し前の天才が軽く凌駕される時代になっている。

スポーツと同じで練習法のメソッドがどんどんできて、それを簡単に教える教授法も出来ている。そして大昔にはそういった教授法は特定個人しか持っていなくてそこに教わりに行かなければ絶対学べないものだった。それが国際的に人の交流が活発になるに従って広がってゆく。リストやパガニーニはヨーロッパを歩き回り演奏した。そこから技術を盗む人もいただろうし、独自で開発した人もいただろう。そういった流れがあって技術は向上してゆく。

少し変なところなのだが、フルトヴェングラーのワーグナーを聞いて、面白くないと思ってしまった。確かに音楽的にはいいのだが、現在バイロイトで振っているティーレマンの方が圧倒的に素晴らしい。キャストの問題ではなくドラマが美しいということなのだ。ドラマは楽譜に書いてある。そして音の積み上げが完璧だ。

これには時代の変遷もある。ワーグナーの場合「楽劇」と言っているように、音楽と劇(文学と言い換えてもいいか)、そして舞台(装置や演出も当然含む)が混ざり合った総合芸術でもある。ただ第一次世界大戦後までしばらく舞台は古色蒼然としたものだったようだ。ワーグナー歌手だったメルヒオールの写真なんて見ているとウヘ!とくるくらいに古臭い。演出もできることは限られていた。だから音楽が重要視されていたのだろう。

ところが大戦後、ありとあらゆる試みを舞台が仕掛けてくる。超過激で客席からブーイングが出るものもある。バイロイトのリングなんてこの20年、ブーイングのなかった年はないのではないのだろうか。

すると音楽でございと指揮者が言っている場合ではない。演出と協業しながらさらに高度の音楽に仕上げて行かなければいけない。演出ではブーイングになるのはわかっている。それならさらに音を磨くしかないのだ。

その意味ではコンサート指揮者のフルトヴェングラーは分が悪い。そしてなのだがあの膨大なスコアを完璧に解釈できるためにはフルトヴェングラーはワーグナーの時代と近かった。何人もの指揮者がスコアを解釈して、ようやくティーレマンになったのだろう。そうワーグナーのスコアは4時間分だが楽器とか合唱とかが入ってくるので、フツーのオペラの4倍の重さがあるという。指揮者が楽譜を暗譜するようになったのはフルトヴェングラーの頃からと言われているが、ワーグナーでは確認用のスコアを置くのが普通だ。暗譜したとしてもあの長さだ。間違える可能性はある。

この時間のかかり具合は、多分これがクラシックなのだろう。

 

 

 

個性的な演奏者がいなくなったとかなり前から言われている。だがそれは時代の要請だろう。

理由の一つとして現在の音楽家がデビューできる条件だ。まずコンクールで賞を取らなければいけない。そうなれば当然テクニックも十分で、曲の解釈も完璧にできる保証がつくわけだ。だがそうするとコンクール前提の演奏に慣れてしまっている可能性もある。とは言っても国際コンクールの決勝に出るほどになると、それはそれは個性的だ。

縁故で出てくるのは、それはそれは天才しかないというのは事実だ。ピアノのキーシンがいい例だろう。アンネ・ゾフィー・ムターをベルリンフィルのコンサートマスターにというのは、ドイツ人で女性の天才バイオリニストをという時代の要請があったと思う。お金の面でも。その前にソリストとして活躍していたのをオケのコンマスに抜擢しようとしたのは明らかに間違っていた。どんな天才でも、人間関係が作れなければ入れないものだ。

最近ではCDも売れない。そして各オーケストラも自治体の予算削減や地元経済の低迷で寄付金が少なくなっている。そういった状況ではこのコンクールで賞を取ったばかりの新進気鋭を持ってきて客寄せするほうがいい。そして若いのでギャラも安い。そしてフレッシュな演奏を聴かせてくれる。それではギャラの高い人たちは?円熟期になり演奏に深みを出したくとも機会がないからそうそう聞くことはできなくなる。そういったものもあると思う。

そしてオーケストラを支配する独裁者的な指揮者がいなくなった。伝説的なリヒャルト・シュトラウスやドラティやショルティみたいな話は聞かない。チェリビダッケの場合練習時間が長すぎるというのが実際の話だろう。今では楽団の技術レベルは十分に高く、音楽性も高い。そういった楽団を率いるとなると怒鳴り散らしていたのでは彼らが逃げてしまう。今では指揮者が調教するのではなく話し合うのが主流になりつつあるようだ。結果緻密なアンサンブルは出きるが指揮者のわがまま全開というものは少なくなるだろう。

さらに録音したものと違う演奏をしたらマズイ。再現性を求められるのだ。そういった意味でグールドやミケランジェリは再現性に忠実だったのだが、録音通りに弾けることというのはロマンティックな話ではない。ファナックのロボットにでも任せたほうがいいのではないのか、そういった議論にならないのがおかしい。そこまでも難しい話なのだ。それはソリストだけではなくオーケストラまでも求められつつある。

一番大きいのは後期ロマン派時代には、音楽は文学より下だという感覚があったと思う。絵画も文学も急速に進んでいった時代なのに大衆からは古いものを求められてしまう。それだったら音楽で文学を書いてしまおうという考えがあったと思う。しかも劇付随音楽ではなく、単独で聴かせる作品として模索していた。代表はシューマンのクライスレリアーナだろうか。自分でテキストを書いたワーグナーもそうだ。ドビュッシーは「言葉の尽きる時に音楽が始まる」と言い切った。そして後期ロマン派は言葉から音の力を発見する。その流れがあった。

その流れを知っている指揮者がフルトヴェングラーだったりメンゲルベルクなのだろう。

だが録音時代になると彼らの語り口は正しいのか?という疑問が起きる。三種類聴き比べたら細かいところで譜面が削られていたり付け加えられたりしているのが多かったのだ。そういった意味ではメンゲルベルクの休符は可愛いものだ。とはいえなにかやっている気がしてたまらない。そういった語り口の工夫をしすぎて、原稿に勝手に手を入れていた。

そこで楽譜に忠実に指定通りのテンポや音量を演奏するべきだ。スコアが何種類かある場合は演奏にそれを明示するとかのルールができた。だがやっぱり昔通りの演奏が好きな人もいるし、新しいムーブメントを進歩と捉える人も多かった。だが演奏者にとっては個性はあるのに、それはスコアに忠実ではないと言われる可能性が出てきた。そのためか抑制的な演奏が多くなったと思う。その抑制的な中での個性のせめぎ合いというのが音を磨くという方向になったのではないかと。

スコアに忠実でなおかつ個性を保証しますということで、指揮者はスコアを暗譜するようになった。そうでないと個性とスコア通りは両立しなくなるからだ。彼からあふれる音楽を聴くというのが前提になってゆく。さらに楽譜に忠実であるために古楽器を使った演奏が起きる。そう楽譜指定のテンポだと、モダン楽器では音が大きくなりすぎたり濁ったりする。こういった理屈は楽しい。実際彼らの研究と実践は今のオケに影響を与えていると思う。

この辺りから音楽と文学は明快に分かれてゆく。もちろん後期ロマン派を演奏する限りここから逃れることはできないが、音としての純粋な音楽へと変わってしまったのだ。特にエルネスト・アンセルメとピエール・ブーレーズから始まる譜読みの流儀は影響が大きいだろう。

誰だ、デ・サーバタの方がすごいと言う奴は。ミトロプーロスの感性もすごいですね。でも理論から読んだのは先の二人からです。

実はこの間で全く取り残されていた人たちがいたわけだ。実は日本の評論家だ。クラシックの評論家でドイツ文学者が多かったというのはある。だが彼らは、頭ではわかっているがどうも音楽と文学の分離というのをよくわかっていなかったのではないのかと思う。80年台後半から評論はかなり改善されたが、聴く人の意識にはまだかなり残っているように思える。

個性的な演奏者なら今でもいっぱいいるのだが、どうして大過去の名演ばかりを聞きたがるのか。自戒を込めて書きます。


引きこもる

2015-03-25 01:46:41 | 日記

 

今日は雨が降ったりみぞれが降ったりした。外に出るのも億劫で家で音楽を聴きながら仕事をしていた。

そう輸入版の格安クラシックCDが山になっている。聞かないととにかくまずい状況になっている。どの程度まずい状況かといえば、多分全部聞き終わるのに2年はかかるだろう。カメラマンといえば外ばかりと思われるが、デジタルのおかげで家の中での仕事が多い。人よりは音楽漬けになれる環境にはある。だが2年でもつまみ食いをしまくった挙句に聞いたことのないディスクができるだろう。いや確実に聞かないボックスもある。ルビンシュタインのショパンは安いから買った物。ショパンな気分になれる日が来るといいが2年のうちにその日が来るのか。なぜポチったのかわからないところがある。

欲しくてたまらなかったものが今この価格で、というのはある。特に金の全くなかった20代前半の、しかもCDがオソロシク高かった時代を覚えているから異常な安値に見えるというのもある。ただあの時の渇きに似たものが今でも続いているというのがオソロシイ。

そしてデジタルリマスター技術の進歩です。元の原盤を損ねる勢いのリマスターはずいぶんなくなったようです。だから安心して買えるんですね。そういった古い録音がかなり格安です。とはいえこの人存命だよね?という人の録音がバナナの叩き売りのような価格で出ていたりするのもおかしなところです。

 

 

今日はバッハのマタイ受難曲を聞きました。メンゲルベルク指揮のアレです。この録音はライブで、かつオランダにドイツ軍が侵攻してくる前の日に演奏されたというイワクつきのもので、客席からのすすり泣きが聞こえるので有名です。それがなんと抑えられています。昔からこの録音はすすり泣きを強調しているのではないのかと思っていましたが多分そうなのでしょう。スッキリしすぎているような気がします。例のポルタメントも強調されすぎず当たり前に聞こえてきます。

ボックスセットのおかげでオソロシイことになってしまいました。欲しいのは別なものなのだが、ベートーベン交響曲全集が5種類そろっている勘定です。それ以外にも7番と8番では単独で4種類くらいある。ベートーベンは素晴らしいのですがボックスセットでは必ずついてきます。なのでこの結果になってしまいました。その前に有名指揮者はベートーベン全集を出したいのでしょうか。

本棚に百科事典を置かなければいけない気分で買っているところもあるのですが、同じ項目が重複しすぎているのが痛いです。

 

 

いい時代なのだが。ここまで音源が安くなるとは。

メンゲルベルクはかなりまともな指揮者だというのがわかった。


暖かかったのが雪

2015-03-24 01:40:49 | 日記

 

今日は岩手大学卒業式です。仕事で行ってまいりました。毎年そうですがかなりくたびれました。まあ別れですから、華やかな中にも悲しみがあったりするわけで、そんな中にいるだけでぐったりしてしまいます。奇跡の卒業を遂げたやつとか、華麗なるビフォーアフターで40キロ増強とか、そういった彼らがいなくなるのは寂しい限りです。

 

 

式が終わったあたりから雪が降り始めたようです。なごり雪でしょうか。

ぐったりしている理由の一つに、昨夜シュニトケなんぞを聞いていたというのがあります。その後口直しにガーシュインを、そしてスティーブ・ライヒのピアノフェーズを聞いていたのですが、そのまんま寝てしまって朝に適当に音楽をかけようとCDをプレイしたところピアノフェーズ。

ミニマルミュージックの悪いところは集中力を強いるところ。引き込まれてしまって聞き終わらないと気持ちが悪くなる。かといって聞き終わるとぐったりする。それを朝一番にやらかしてしまったというのがよくなかった。

 

 

馬酔木の花にも雪はふる。

 

 

最近レコードが流行っているようで、響に行くせいかその類の賛否両論を良く聞く。まああそこにはオーディオマニアも行くわけでそういった話がよく出てくる。デジタルとアナログのどちらがいいか、この古ぼけた議論が未だもって出て来るのが嘆かわしい。

みんな忘れてしまっている。録音はどんな形式であっても音楽そのものは記録できないのだ。そこの空間でどんな音がなっていたのか、それは記録できないのだ。オーディオシステムというのは昔っからそう出来ているのだ。例えば2台のピアノはそれなりの面積を取る。そういった構成の曲の場合演奏者が対面になるように配置する。つまり互い違いになるわけなのだが、反射板は一枚しかない。奥のピアノの音は前面に跳ね返って出て行くが、手前のピアノは、半分以上音が天に抜けて行く。

マイクをどうするのか。天に抜けたピアノの音を大切にしようとするとマイクは少し離れた場所に設置される。うまくやらないとスピーカーで鳴らした時に残響ばっかりで濁った音になる。それではマイクを近づけると特定の音しか拾わない。だからマイクの本数が増える。エンジニアのお出ましなのだが、それは会場での雰囲気を最低限残しつつスピーカーで適正に聞こえるように調整するのだがバランス取りが難しい。

それではこの録音がスティーブ・ライヒのピアノフェーズだったら?2台のピアノには調律を厳密にしたとしても個性がある。そして二人の演奏者、同じ音形を同じ力で20分以上弾き続けられる胆力と技術があったら?

実はライブを聴いたことがあった。そこでは音色がどんどん変わってゆくのだ。音形は全く同じなのを片方わざと遅くしたりしながら弾いて行くと、同じ音が重なり合う瞬間は音が強くなる。それはわかると思うが音色が変わるのにはびっくりした。一緒に聞いていた人もピアノの音からホルンの音が出てきたのにビックリしていた。

そう、こういったことは全く録音できないし、オーディオシステムのような点からの音源ではかなり難しいのです。

この点ではアナログもデジタルも全く変わっていないということに誰もが見切りをつけてもらいたいものです。ハイレゾになろうがデジタルでも録音には限界があるし、今のスピーカーを使うシステムの問題もあるわけです。逆説的にサラウンドシステムを志向する人は、オーディオマニアのような嗜好がなさそうだと考えています。ようはスピーカーの数が増えればあまり気にならなくなるということなのでしょう。

もちろんそれでもこだわる人はいるのでしょうが。スピーカーとアンプの数が増えて金額的にも大変だと思うのですが。

 

 

アナログとデジタルの問題ですが、私らカメラマンの間ではさほど話題になりません。理由は視覚と聴覚の違いだからでしょう。人では視覚は最上位の情報源です。その次に聴覚、そして嗅覚と味覚でしょうか。視覚の方が社会性があるから個人差は少なくなると考えています。そしてアナログに比べた場合の圧倒的な流通の仕方が違います。デジタルは速いです。この速さこそがデジタルの魅力でしょう。

それではアナログの魅力は?一発でわかることと実は保存性です。物として残したものがちです。その辺はデジタルでも変わらないのですが、読み出し機器がなくなると一発アウトというのがデジタルです。そういった目にあってきた方はいっぱいいるのではないのでしょうか。

でもMPEG音源で音楽を聴いてきた奴らに、LPレコードの素晴らしさを言われたりハイレゾの美しさを言われると、かなりムっとくる。

音じゃねんだよ、音楽なんだよ。あのMPEGダメダメシステムをなんとかしようとして音をぶち込んできたけど、作り手が頑張ったから聞けただけ。

コピーを聴いているだけというのは、間違いがないんだから。だからライブに行こう。なかなか行けないけど。

 


今日も暖かいのだが

2015-03-22 21:28:49 | 日記

 

スイセンのつぼみがどんどん膨らんでゆく。春の訪れは心躍らせるものだが、内心ビクビクしている。どう考えても2週間も早い春なのだ。これ以上早い春というのは今までなかった。そうすると仕事のスケジュールが一気に前倒しになる。一気に全部を撮影するとなればそれだけの気力・体力を消耗するわけだ。年だからというわけではないがそういった中距離走の撮影はもともと苦手だ。少数の短距離か、ジョギングでどこまでも遠くに行くというのが得意なのに、走りっぱなしが1週間続くとなればチト壊れるだろう。

 

 

気象台は梅の開花を宣言した。平年より21日早い開花宣言だ。そして長期予報も来週の高温を予想している。

 

 

しかしカエルは帰ってこない。岩手大学農学部の北水の池では昨年浚渫作業を行った。コンクリート池ではないのに浚渫作業ができるというのが、この池を作った岩大工法の利点だ。言ってしまえば単純な工法だ。池の底を攪拌して叩き締めるだけだ。だが爆発を使って叩き締めるのでコンクリート以上の低い透水性と岩盤並みに固く厚い土層ができる。30年以上たった池でも底が固く、ポンプを使った浚渫ができるのだ。

ただもしかすればと思っているのは、カエルがなぜ生まれた池に帰ってこれるのかということだ。なにか作用するものがあると思うのだが、水の匂いみたいなものだったりすればかなり激変しているはずで、それでなければいいのだがと考えているところです。

 

 

一週間早いだけだとありがたいのだが。

 

 

そして紅梅が咲いている。3分咲きだ。この木は早咲きなのだが白梅とほぼ同時という時期で咲いていることになる。

 

 

この前まで雪が残っていたところに福寿草が咲いていた。この花は確かに早いのだが雪が溶けると同時に咲き始めているのが少しおかしい。

どうも12月から1月の低音はあったし積雪もあった。だがその後雪はなくなりドカ雪はあったが気温も高く、地表面が出ていた時期も多かった。重い雪で溶けるのが早かったというのもあるかもしれない。そのため地温が高めで推移していたのではないのかと考えている。そうすると植物の動くのが早いというのが説明できるわけだ。

だがそれでは冬眠のガマガエルは地温に影響されている?という仮説は否定されるわけだ。そうすると積算気温かもしれないという私の考えは正しそうな気もするが、それもおかしいような気がする。

何だろう。

 

 

黄砂が降った。少し息苦しかったがPM2.5はさほどでもなかった。