どうでもいいこと

M野の日々と52文字以上

春でございます

2015-03-18 00:55:21 | 日記

 

最高気温が16.2度になった。とても暖かい。一気に春になったようだ。

今年はまだ黄砂も降っていないし、PM2.5も普通だ。昨年のアレはなんだったのだろうか。中国の景気後退は本当なのかもしれない。

 

 

さずがにこの前の雪で、白梅はまだ咲いていない。それでも少しづつ蕾が大きくなってきている。

 

 

ジュウガツザクラも足踏み状態だ。でも今年の花色はとても良いものになりそうだ。

 

 

サザンカが今咲いているというのも盛岡らしい。何しろ北限を超えた場所に植えられてしまったのだから仕方がない。

AFPPの記事で面白いのがあった。

 

【3月16日 AFP】世界報道写真財団(World Press PhotoWPP)が主催する報道写真コンテストには今年、前例がないほど多くの「加工された写真」が持ち込まれ、写真報道(フォトジャーナリズム)における芸術性と不正の境界線の在りかをめぐる議論が再燃した。最終選考の一歩手前まで残った写真の20%が、過度の加工を施していたために失格となった。昨年の3倍だった。

 

昨年から問題になっていたことなのだが、今年はさらに激増したという。最終選考に残った写真には、カメラのCCDから直接取り出して加工されていないROWデーターの提出を求められる。露出の調整や色補正は認められるが、それ以上の加工は認められていない。それでもどんどん出てくるというのはいったいどうゆうことなのだろう。

もっとも深刻なのはスポーツ部門だろう。

 

とりわけ、画像の不正加工による打撃が大きかったのはスポーツ写真部門で、この部門で失格せずに最終選考まで残ったのは2作品だけだった。「多くのスポーツフォトグラファーが、自分の仕事はジャーナリズムではないと思っているかのようだ」とバズは批判している。


スポーツで加工するのはご法度だろう。人の熱狂を簡単に失望へと変えてしまい、関係者に多大な迷惑がかかるからだ。写真による八百長とも言える。とはいえどの程度の改ざんを行ったのだろうか。まさか相手をすり替えたとか足を増やしたとかではないだろう。

報道ではないが日本でよく見るのは、球場にあるコマーシャルに全部モザイクをかける場合だ。アマチュア野球がよくやる。多少は改善されたと思うが今でもやっているところはあるだろう。テレビなんかで、どこで撮ったのかわかりにくくするために全体にボカしをかけて登場人物と変な具合になっているのも良く見かける。警察24時間とかそういった番組でよく見かける。報道番組なのかどうかよくわからなくなる。プライバシーに配慮しすぎてそうなる写真もある。そうするとその写真の意味すらもわからなくなるのだが、それを出す意味があるのかどうか。

ただこの記事にも書かれているように、カメラマンのビジョンは大切だ。実際モノクロ時代には焼き込みや覆い焼きが頻繁に行われていた。周辺を暗く焼きこむビネット効果も散々使われてきた。硬調なプリントでのとげとげしさの強調もあった。記事中には安いレンズを使うとビネット効果が得られるのにと書いているが、それではなぜカメラマンがより良いレンズを使いたがるのか説明がつかない。フィルム時代のカメラマンたちはライカやコンタックス、そしてニコンやキャノンの高級レンズばかり使っていた。なぜ過去がよくて今はダメなのか。アナログではよくてデジタルではなぜダメなのか、考えが単純すぎる。



アセビが咲いてしまった。

さて続きだが、高級レンズを報道カメラマンが使っていたのは、後でトリミングなどの加工がしやすいからだ。そして媒体がそれを求めてきたからだ。できるだけ綺麗な原盤、そしてトリミングしてもボケない解像度とコントラストのレンズを求めていたというのは事実だ。そしてカメラマンも自分の仕事を最良に残したいからこそ良いレンズを使ってきた。戦争写真のようにカメラマンは撮ってきただけ、フィルムは送るだけ。通信社で現像され編集者がセレクトして記事と印刷に合わせて画像を焼き込みや覆い焼きで調整してきたものを発表していただけなのだ。

それがデジタルになって、通信社は現像とかプリントのシステムをやめてしまった。代わりに今までの華々しい効果をカメラマンに求めるようになったと思う。いやそうだろう。そしてカメラマンの競争は激しい。できるだけ顧客が求める形で出してゆく。それが焼き込みや覆い焼きだったりするわけだ。場合によっては加工だったりする。実はそれだけの話なのだ。それが報道写真家協会のコンテストにそのまま出てしまうほどに一般的になってしまったのだ。

AFPは加工判定ソフトを導入してその偽造を配信しないようにしているというが、過去の自分たちとの整合性は気にしていないようだ。

問題は顧客だ。それは出版社や通信社ではない。彼らは逃げの一手を打った。加工された映像は配信しません、なのだ。顧客というのは実はそこから配信された映像を見る普通の人たちなのだ。もはや強調の入った「わかりやすい」映像以外は受け付けない。それでいながらもっともわかりやすい残虐な映像は一部の人の顰蹙を買う。それでいて新聞も雑誌も売れない時代になった。そんな時代にすべての説明責任をカメラマンに押しつけているという図式がある。それでいで報道写真家協会のように崇高な使命を帯びた団体は厳密を要求する。

ここにはポストモダン状況とまではいかないが、写真で事実が伝わらなくなっている状態がある。たった一枚の写真で世界が動かせる状況ではない。写真にある多様な読み方の問題が大きく影響しているのだ。



オオイヌノフグリが咲いているということはガマガエルの観察を始めないといけないようだ。少し遅れたかもしれない。


デジタル以降の報道写真で一番の問題は、デジタルならではの加工性の高さだ。そこに誰もが疑心暗鬼になっているということだ。この写真は正しいのだろうか。このカメラマンは偽装していないのだろうか、そして発表された写真を見る人はリテラシーがあるのだろうか、変な勘違いをするのではないのか?そして見る人もこれはきっと合成だと疑う時代になっている。

カメラマンがどのようなモラルを持っていたとしても、通信社が高度なソフトを入れても、現実に売れない商品をどうするのかという問題があると思います。

ロイターから出禁を食らったカメラマンは、きっと真面目だったのではないのかと思います。

 

 

今日は歯医者の日。ついに前歯ブリッジの行程です。作業時間から予約時間も少し早くなり時間が中途半端になってしまいました。春を探しながら喫茶「響」に向かいます。

 

 

「響」でいきなり「ニューギニア飲む?」と言われました。推定数量50杯限定のコーヒーです。そういえば格好いいのですがスラヴェシ島の農園から持ち込まれたもののようです。サンプルロットです。気に入った豆ではないということですが、思ったより良かったということで店出しになった模様。しかしだね、以前に見た限りでは素人目にも未成熟豆が20%以上は入っていたものです。どうも選別が大変だったようです。

トラジャの隣の県で作られているということなのですが、かなりな違いがあるそうで、そちらは野菜作りが有力な県で植物のことがよくわかっている。だからコーヒーも生育がいい。しかしなぜか収穫が荒い。それでは隣のトラジャはあんまり上手ではないのだが収穫だけはキチンと成熟豆を収穫するという。これはイスラムとキリストの違いなのかというのが熱田氏の考えだった。

スラヴェシでもイスラム圏の豆なのだが、盗まれるのを恐れて早摘みをしてしまいがちなのだという。そのため未成熟豆が多く混入してしまうという。ただイスラムは人のものを盗むというのはご法度で厳罰があるはずなのだが、その盗まれるという概念が、多民族国家ゆえなのかその農場の特質なのか、宗教なのか判然としない。

ただわかるのは、極めてアジア的だといいうことだ。人が植えたものでもそれは自然だから、誰もが採って良いという考えなのだろう。キリスト教だと多少その辺りが厳密になるのだろう。

お味は?香りがいいブラジルっぽい感じでしょうか。冷めたときの酸と苦味の関係性が生み出す、あの甘さと苦味が、さて皆様次の言葉を期待するのでしょうがそこから先は、クリアーで余韻のなさが待ち構えております。

限定価格400円という安値です。ニューギニアと次にブラジル中炒りをデミタスでオーダーするのが楽しいかと思います。

 

 

松と白鳥。あんまりいい組み合わせではなさそうです。

 

 

カワウを撮影していたら、珍しい鳥だと通りがかりの人に思われてしまい、困惑しました。

綺麗な鳥なのは間違いがないのですが。増えすぎるとあのウンコ攻撃ですから、如何ともし難く。

 

 

報道では、写真よりテキストの方が重要です。そのへん分かっていなかったり写真だけ取り上げられてしまう世の中が、とてもおかしい。

コマーシャルと報道が渾然一体になりつつありそうで、本当のプロがいない世界になりつつありそうです。

 

 

歯医者で、寝てしまった。

仮歯を作る過程だったのだが、時間がかかる。修正をかける時間なのだがその間にどうも熟睡していたらしい。いびきをかいていたようだ。

いい病院だ。

 


忙しかった

2015-03-17 01:30:20 | 日記

 

確定申告が終わってから仕事で忙しかった。人の顔を撮るだけなのだが、顔に歴史あり、どう良く見せるのかが腕前なのだがかなり疲れた。特に83人もの証明写真は疲れた。全く知らない人ならまだしも知っている人ばかりだから以外と難易度は高い。いい加減なことはできないからだ。それでいて時間制限もある。

単なる服装だったらそんなに問題はないし、髪型もそんなに問題にはならない。一番の問題は頭蓋骨から頚椎、脊椎から骨盤までの関係を一発で見抜くことだ。それができるかどうかなのだが、マッサージに行ってから来てくださいとは言えない。そこで様々な修正をかけてゆくのだが、その修正も間違った方向を一回でもやってしまうと延々に修正が続いてしまう。

そして斜視の問題がある。ものすごく軽度の斜視の人はかなりいる。認知されている三白眼は斜視の一種だと思っている。ここをどうするのかが証明写真の奥の深さだ。瞳を明るく力強く見せるためには、正しい位置に瞳を持って行けばいいのだが、それでは力が宿らない場合が多い。塩梅が難しい。

そう、証明写真の奥の深さは、見る人を想定した世界なのだ。そして顔という個性を合わせて引き出してゆく。

それって個性を表したものではないのかといわれると思う。ただこの証明写真が送られる所が厄介だからそうなる。上場企業だ。そこでは顔の個性は見ていないはずだ。ほんのちょっと、目とかネクタイのほんの少し、そこしか見ていない。個性というのはそんなに写真からは汲み取れないものなのだ。

気合が実は重要だったりするというのは、30年前から変わっていない。そこを引き出すのが、ほんの数分の仕事だと思っている。

 

 

写真は過去しか表さない。このせいか証明写真は面白い現象を生む。徹底的にやった写真を撮ると、写真に合わせるようになるのだ。正確に言えば見え方に気がつくわけだ。

この現象はかなりある。政治家なんてそうだ。若いときのオドオドした感じから見えかたを学習するにつれ、その風格を作り上げて行く。

プリクラ以降写真の写り方というのを工夫しまくっているのが現代人だ。だが正面からの顔から逃げているフシがある。気づきを与えられるかというのが、実は大きいことだと思う。

でもな、女子では小顔に見せようとして頭を大きく見せるヘアスタイルとかどうなのかといつも思っている。額も顔の一部なのだが、そこを綺麗に見せると聡明さという言葉に結びつくのだが。男子では証明写真というのはどうでもいいと思っているようだ。そしてそうなのだが、襟足が汚い子が多すぎる。そういった子に限ってヘアスタイルにこだわるわけだ。ただ襟足がボウボウだと、清潔感はない。ここはわかってほしい。だらしなく見える写真を撮ったら、まあ僕はアウトだな。

カミソリ持ってこい!と言いたくなった瞬間がありましたが、カミソリの使用は衛生的に厳禁なので。理容師資格が必要です。そうなると費用対効果の問題が大きすぎます。でも真面目に悩みます。

83人の未来と向かい合ったら、そりゃ疲れると。しかも最大5分、それ以下で最大で適切な魅力をどう引き出すのか、しかも笑顔ではなく真顔のもので、ほんの少しのニュアンスを追求するのはえらいことなんですよ。

 

疲れた。人の人生を背負いこむことはないのだが。


確定深刻終了

2015-03-13 21:41:04 | 日記

 

まだ雪が残る盛岡です。ムーミンがいました。

 

 

毎年のことですが、確定深刻です。本当に深刻です。

特に昨年レンズを大人買いしたので、その扱いがチョっと難しいです。10万円以下なら経費に丸め込めるのですが20万以下となると減価償却対象です。さらに同時期に6本買っているのでそうすると6本まとめて一資産とみなすかもしれません。そうすると中古で買ったものも含めて5年の減価償却期間になります。今のこのデジタル時代に減価償却期間が長すぎるといつも思っています。3年とは言わないけどせめてパソコン並みの4年にしてもらいたいものです。レンズだって老けるのがわかる時代です。

別件で税務署に電話して聞くと、オソロシイことを言います。それで計算が一旦止まって、もう一度確認のために電話で聞くと「そんな常識でしょ!」と前に聞いたことと180度違うことを言いだしました。ということで別件は一気に解決、そしてレンズの件を聞くと「お買い物は計画的に」と言われました。減価償却対象だよ?と遠回しに言われました。ということで減価償却の計算をし直して、無事に書きあがりました。

それにしても大赤字です。ここまでだと、税務署が生きているかどうか確認することがありますが、それはそれはドキドキもののようです。友人でいきなり呼び出されてなんだと思ったら、生活相談だったというのがありました。ホントあなた生きているんですか?だった。

 

 

 

毎年思うのに、アメリカのように国民全員確定申告というのもどうかと思うのだが、日本みたいに個人事業者と年収2000万以上の人、副業を持つ人だけが確定申告をするのも良くないとおもう。税金の勉強は確定申告をやってみないとわからない。例えば減価償却の意味(資産として計上できる)とか、その年限が有力な業界では短く、非力な光学機器は未だもって長くとかバラつきがある。パソコンが5年から4年になったのは画期的だった。でもやっぱり3年にして欲しいものだが、今やマック以外は10万を切ったから単年度償却してしまえる。

最近では国庫から補助金を受けている企業が政治団体に献金するのはモラル違反だという声がある。だがモラル違反なのではなく、国庫の金の出入りが完全に分離しているために起きることなのだ。そして分離しているのは極めて正しい。国庫がどんぶり勘定しないためには絶対必要な制度だ。そして企業には安く資金を得たいという欲求があり、税金はできるだけ払いたくないという行動をするものだ。そのために補助金をもらい、政党等寄付金特別控除を使うのだ。

それではなぜ企業は寄付をするのかといえば、顔をつなぐためだ。世界中見渡しても完全法治主義国家というのはない。アメリカだって人のつながりでできている。旧ソ連だってそうだった。そのつながりを確保するための経費として、企業は使っている。政治家が政治家であるのは、横も縦も広い人脈があるからだ。口利きのためだけに金を出すのではなくそこに至る橋渡しのために使うだけだ。

モラルという言い方は、実は古い。農林水産大臣に成る自民党の農水族に献金するのは、そこに集まる情報と人脈を求めているからだ。口利きにはあの程度の金額では済まない。なぜなら違法スレスレになるからだ。政治家はそれを嫌う。だから自民党があんだけ強気でいられるのだ。違法でもモラル違反でもないのだ。

税は社会を映し出す鏡だ。あるところは異常に古臭く(寡婦・寡夫控除や配偶者控除・特別控除、婚姻制度が大切だということだ。独身者はイラナイのだ。そして生きるのにあんまりな基礎控除の低額)、あるところは突出して斬新な減価償却200%定率法がある。税務署に資産として届けを出した資産なら資産購入価格の2倍の減価償却期間を認めますという、全く設備投資を推進したくなるようなアイディアなのだ。減価償却年限が10年とされている資産でも実質5年で償却できるのだ。後の5年は節税しつつ金を稼ぐという期間になる。とはいえ平成19年度から24年度まで250%定率法だったのに設備投資が進まなかったのはご存知の通り。税務署に届けるというのがネックだったのでしょう。なお25年度以降は適用されなかったかといえば、震災復興予算かもしれないというのが悲しいところです。

私には企業補助金などはよくわかりませんが、製造業偏重になっていると思われます。そして法人税ではサービス業に負担が大きいのが日本です。ところがGNP比率ではサービス業の方が大きいところに問題があるわけです。

そして私のような個人事業者がなぜこの確定申告がストレスになるのかといえば、私の価値を否定するのですよ。正確に言えば、私という計上できない資産に対する報酬というのがないのです。理論上そうなります。随分お高くとまっていると思われるでしょうが、ないところからものを作り上げる商売ほど、仕入れがないわけですね。資産もないわけです。生み出したものは100%課税です。そういった人を想定していないのが税制です。そうするとガっと税を取られて、次年度にオソロシイ金額の国民健康保険税と住民税がやってきて貯金が尽き果てて、路頭に迷う寸前に陥るわけです。バンザイ寸前でした。飲み屋で出会った税理士から指南されて今日までなんとかやってきました。

ということで、税金ってコワイから勉強しましょうよ。そうすると社会が見えてきます。重税の本当の意味もわかると思いますし、消費税の意味もわかると思います。特にサラリーマンは、消費税で重税とか言う前に基礎控除の異常な低さに早く気がつくべきだが、天引きされている彼らはそんなことを考えたこともない。

消費税の還付制度の方がいかに人には優位かというのが実感できます。軽率減税では消費末端に負荷がきます。事務処理ですね。そこがネックです。なお家計処理アプリなんかあって、レシートを自動処理して台帳を管理できる世の中ですが、視覚障害者だったら使えません。税というのは誰でも使える制度です。例外があってはいけないというのが前提です。

右翼であろうが左翼であろうが自称コスモポリタンだろうがアナーキストだろうが、税というオソロシイ問題をみないと社会も理想も政治も語れないのだが、なんでこんなに極所論しかないのかが不思議だ。

税こそが国家です。払う人民がいてこその人民主権なのだ。その思想がないことを見たければ税制を見なければならない。

 

 

 

ということで一枚あたり160円のワーグナー全集、ドイツグラモフォン販売でグラモフォンとデッカとEMIとBBCが相乗りというオソロシイ企画です。でもこの紙ジャケの美しいこと。そしてこれを聴き終わるのにはいったい何年かかるのか。

焦っています。


逃げる

2015-03-13 01:05:33 | 日記

 

1月には阪神淡路大震災20年があった。3月9日からなぜか東京大空襲が話題になっていた。東京大空襲70年だそうだ。戦後70年だからたしかにそうだ。それが終わったら311、福島原発事故は312なのだが、丸められてしまった。そして3月20日は松本サリン事件から20年だ。新宿サリン事件の前哨戦として公安警察は追っかけていたが、地元警察がトンチンカンなことをやらかしたおかげで、私のところまでトバッチリがきてしまった。

「お前化学だろ?サリンつくれるんじゃネ~の?農薬からでも作れるんだろ」

「フッ素でガラスが溶けるんだぞ、どんな機材を使えばいいんだ?そんな金どこにあるんだ。大学じゃまずムリ。その前に農薬からはまずムリ。ご家庭で作れる代物じゃない!」

「ということは作り方は知っているんだ」

「いやその前にドラフト使って隔離したって出来たものがほんのわずか吸い込んだだけで死んでしまうんだぞ?普通の防護服でも一発アウト。そんなもの作る奴の気が知れない」

「やっぱり安全確保まで考えているんだ」

という不毛な会話を何回繰り返しただろうか。なんでからかわれているのかはウスウスわかっていたが、やっぱり不愉快だった。だから新宿サリン事件の時にさらに言い返したら、もっと白い目で見られた。

「だからサリンなんてアホが使うものなんだよ。青酸カリの錠剤をコーティングして、塩酸の組み合わせで青酸ガスを発生させる時限装置を作る方が簡単で、飲み残しのペットボトルに簡単に偽装できる。これだったらサリンより大規模にできるし、後遺症問題も少なくできる。ポアという言い訳のためには死ぬか生きるかがはっきりしていないといけない。だいたい信者にビニール袋を傘で突っつかせるなんてナンセンスだ。作戦としては最低だ。」

後日そういった事件が起きて、さらに白い目で見られた。

 

 

 

阪神淡路大震災と東京大空襲と東日本大震災と松本サリン事件が並ばれてしまったが、それぞれがそれぞれに大きすぎる出来事だった。ただこうしてみるとそれぞれに語り部がいて、当時を振り返ることができるようになっている。松本サリン事件は、警察の捜査能力にケチがついた事件だったし、マスコミの対応もいかに醜いのかというのが露出した事件だった。公安警察の秘密主義の行き過ぎは問題にならなかった。元容疑者でありサリンの被害者でもあった家族は、今では日本の冤罪事件の最高の典型例となっている。

しかし鑑識の人たちには化学出身者がいるはずなのに、なんでリン酸系農薬とフッ素でサリンが作れると判断したのだろうか。これは未だもってナゾだ。そういった実験をしていたのだろうか。

この4年目の震災忌だが、少し相対化されてホッとしている。今年は一日中家にこもってミサ曲を聴きながら確定申告の書類を作り上げる、たった2時間で済むのだが、その予定が大雪で頓挫してしまった。全く慌ただしい311になったものだ。

死者を悼みつつ、屍体同然の我が家の経済状況を解剖するという、倒錯した儀式は叶わなかったわけだが、忙しいのは生きているという証拠だ。悪いわけではない。ただその時間は少し忘れていた。

ちょうど除雪が終わって、玄関に雪を飛ばした家のうち、足の弱いお年寄りの家の前を雪かきしていた。そして大家の家の生垣に積もった雪を払いのけていた時だろうか。その辺りがあの時間だった。

家で少し休んでいた時にワーグナーの超格安ディスクセットを見つけて盛り上がっていた頃は、多分津波到達時刻だろう。

 

 

逃げていました。でもそれは非難されることなのでしょうか。

非難されることなのでしょう。でも当事者とは言い切れない中途半端な私にとっても、傷をつけられた震災です。

だからこそ、震災を風化させないという十字架を自ら背負うのは、そろそろ終わりにしたほうがいいのではないのでしょうか。

死を悼むのと風化は違う話です。死を悼むのは個人的行為です。風化は我々の傷には難しいことです。風化という言葉は東京に向けています。ただありがたいことに311以降を追いかけてくれるジャーナリストも多数います。福島に赴任した医師で現状を発信してくれる方とか多様なメディア展開があります。また日本そのものの現状を突きつけたのが震災です。あと10年は風化することはないでしょう。

津波の後の映像で、「爆撃の跡のようだ」という発言が多かったのを覚えています。それは東京大空襲であり、広島・長崎の惨劇でもあり、日本人には震災の姿はそういった66年前の記憶と結びついていた。それが今年に結びついたのだ。

だが我々には、少し余裕が欲しい。忘れてはいないが忙しさにかまけて失念する余裕を。