タイトルに敢えて?をつけたのは、わからないから、寧ろお訊ねしたいという気持ちから、、。
画像の3つのつゆ徳利に書かれている屋号はいづれも東京の老舗の名前。
左 「かん多” や婦”」と書かれている。土は鉄分の多い赤土で、白化粧土で波のように流れるような化粧の上に乳白らしき釉薬をかけている。神田須田町の藪蕎麦のもの?
中「永坂 さらしな 布屋」と書かれている。土は真っ白ではなく白みの灰色。麻布十番の蕎麦屋・布屋太兵衛さん(創業寛政元年~昭和14年、その後再興)のもの?
右 「上野 揚出し」と書かれており、洋画家・小絲源太郎画伯の生家である上野山下にあったという文字通り「揚げ出し豆腐」の店?随筆や懐古談によく登場する店。吉原からの朝帰りの客が入浴して食事ができ、繁盛した、という話は有名。しかし、創業と閉店の時期がわからない。土色はベージュ。
これら3つ、同時に入手したわけではなく、時もところもばらばらにみつけたもの。
東京の老舗の屋号が入っているからという安直な発想で入手したもので、今戸焼とは考えていなかった。特に「揚出し」は「上野のあの店」という気持ちで求めたものなんですが、その後、白井半七作の徳利の写真によく似た化粧や釉薬の作品があったこと、明治12年刊の「東京名工鑑」の記述で幕末までの茶陶の需要は減り、食べ物屋の器を作るようになった云々、などからすると、今戸焼である可能性も皆無ではないかもしれない、と考えはじめたわけですが、おわかりの方、いらっしゃいませんか?
もちろん、こうした下化粧のやりかたはどこの窯業産地にもあったかもしれませんし、近いところで、笠間、益子などからの供給もあったでしょう。
この3つは鋳込みの成形ではなくて、手挽きです。底に雑な糸切の痕が残っています。