東京の土人形 今戸焼? 今戸人形? いまどき人形 つれづれ

昔あった東京の人形を東京の土で、、、、

撫牛と金縛り

2015-03-16 11:07:26 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

この撫牛はおそらく今戸のものではなくて、伏見、深草の辺りの産のものではないかと思っています。瓦質でできています。
日本全国に瓦質、土焼きに彩色、木彫りなどさまざまな撫牛がかつては作られていたと思います。お寺によくある「おびんづる様」「撫仏」などと同様神社の境内にもおおきな「撫牛」があり、願いを込めて撫でる(自分の体の問題のある部位を)と平癒するとか、牛であれば眉間に「梅鉢」だの「宝珠」だの「大黒様のレリーフ」があってそこを撫で擦りながら心願すれば幸せになれる。最近どこかの神社で付け焼刃のようなエイリアン風の招き猫が雨後の毒キノコのように出現していますが、上記の先例をぱくったものではないでしょうか。

撫牛も記録などでは大流行し、京都の伏見をはじめ各地で作られ、家内にお祀りして心願する。ということが各地にあったようです。
中でも有名なのは延享年間に伏見で起こったという撫牛製造者どうしの「本家争い」です。「保寿軒」という窯元と「木村虎悦」という製作者の間で争われ、それぞれ本物はうちのだ、まがい物に注意しろ、といったビラも配られていたとか、、。これに似ているのが嘉永5年の浅草寺境内(三社権現鳥居横)での「丸〆猫」の本家争い。近世遺跡から「丸〆」の陽刻のある招き猫と「本丸〆」のものとが出土されています。

さて、画像の撫牛に出会ったのは、まだ20代の頃、谷中、根津、千駄木界隈をときどき歩いていたある日、昔流れていた「藍染川」の跡である「へび道」から曲がって入っていったところに「古道具屋」があり中古の湯呑み茶碗だとかコップや花瓶、行火とかガラクタに混ざってこの牛があったのです。

お牛さまの鼻の部分穴が通っていますが、当時穴に凧糸のようなものが通してあり、その店の中では壁のフックに紐でぶる下げてあったんです。
面白いな、と思って値段を聞いたら「安い!」当時の物価でマックのチーズバーガーセットより安かったのですぐさま買い求めて帰りました。
偶然に手に入れたものでも新しく買った本とか、寝しなに枕元で読んだり、眺めたりしませんか?そうしていつの間にか眠りに入ったのです。
夜中に息苦しくで目を覚ますと、目は見えるが体が金縛り状態で身動きできない、声も出せない。すごく重いものの下敷きになっているように苦しい、、、、自分の布団の真上に大きな黒い牛が蹲っていて、私の顔を見つめているんです。牛さんの瞳って純粋で穢れのない澄んだ目ですよね。
その眼で私を見ているんですが、「モー」とも何も言わない、、。予期せぬことなんでびっくりして、、。そういう金縛り状態がその夜何度もありました。牛さんの背後にはエメラルドグリーンとバイオレット色の煙のようなものが渦巻いていました。

そういうことが何日かあって、牛さんが何か訴えているのではないか、、、そうだ鼻の穴に通してある凧糸が嫌なのかと思い、はさみで切りました。
それ以降夜中に姿を見せなくなりました。その後部屋の状況によっていろんな場所に移動させていましたが、ひどいことに一時、アトリエのイーゼルの横に置いていたこともあり、飛び散ったウルトラマリンの油絵の具が背中にくっついてしまったままでした。でも絵の具がくっついたと言って夜中に出てくることがありませんでした。固まった油絵の具は「ストリッパー」、という溶剤を塗って暫く置いてから拭き取ることはできるんですが、せっかく時代を経た質感をダメにしてしまうのも嫌だし、「痛い」といってまた布団の上に出てきやしないかと二の足を踏んでいました。(ストリッパーが肌につくとひりひり痛くなるんです。)
今のところ夜中に出てきません。もしかすると十五夜さんが一緒にいるから遠慮しているのかもしれません。





落語「今戸焼」より★

2015-03-16 10:04:18 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

以前、落語「今戸の狐」について採り上げましたが、もうひとつの演目である「今戸焼」についても触れてみたいと思います。

落語そのものについては、ただ笑って聴いているだけの私ですので、うんちくを披露するだけの知識もありません。話に登場する言葉の端だけについてだけ触れます。



この演目は八代目三笑亭可楽師匠所演のCDを聞いたのみですが、さらさらと実に淡々と噺されていますね。



タイトルの「今戸焼」は噺のサゲの「今戸焼の福助」に由来するばかりなのですが、そのひとことで通用するだけ、今戸の福助というものが聴き手に周知されていたのですね。それだけ身近なものとして知られていたのでしょう。



「役者の福助」は成駒屋・中村歌右衛門家の大切な名跡である「中村福助」です。歌右衛門家では福助の名跡を空けてはいけない、と言われているそうなので、5代目歌右衛門(4代目福助として明治の劇界で絶大な人気を得た)以来常に名跡を継いでいる人があったようです。 歌右衛門家では児太郎→福助→芝翫→歌右衛門という順繰りに襲名していきます。では噺に登場するのはどの福助さんか?



この噺には「吉右衛門」「宗十郎」という名前も出てきます。播磨屋・初代中村吉右衛門紀伊国屋・沢村宗十郎です。吉右衛門は六代目尾上菊五郎とともに下谷二長町の市村座で人気をあげた人なので時代は大正以降です。この時代の沢村宗十郎は帝国劇場の専属として売っていた7代目と考えられます。この人は今戸にあった料亭「有明楼」を経営していたことでも知られています。この七代目宗十郎が亡くなるのは昭和24年なので、大正~昭和24年の間の中村福助さん。2人います。



先年お亡くなりになられた6代目中村歌右衛門さんも昭和8年に福助を襲名されていますが、まだ年少でした。そのお兄さんの「慶ちゃん福助」と呼ばれて美貌で人気のあった5代目中村福助(本名を慶次郎といった)こそが、この噺に出てくる「役者の福助」でしょう。現在の中村芝翫さんのお父上です。



今戸焼の土人形の福助ですが、いろいろな種類がありました。「叶福助」という人形もあったのですが、一番ポピュラーだったのではないかと思われるのが、画像のようなお福さんと夫婦の福助さんです。長年神棚にお祀りされていたのでしょう。煤けて色や絵付けがわかりません。この夫婦のタイプは両手を膝に置いたポーズのものもあります。画像の福助さんは扇、お福さんは宝珠を手にしています。



落語の「今戸焼」はYouTubeに八代目三笑亭可楽師匠所演の映像があります。まだご覧になられていない方はどうぞ。



YouTube 八代目 三笑亭可楽「今戸焼」→

 




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日向ぼっこ

2015-03-15 12:44:41 | おともだち

春めいて来ているんですが、暖かくなったと思えばまた冷える。上着を着て外出すれば、暑いから汗をかき、脱いだところが寒くなって風邪をぶりかえす。そんな繰り返しです。猫さんたちも、お天道様があれば日向でじっくり日向ぼっこをしていますね。本能的な健康法なんでしょうか。
我が家の十五夜さんもやっぱり日向ぼっこがすきですね。天気がよい日であれば物干しにマットを敷いてあげれば、ちゃんとその上で寛いでいます。
さりげなく座った姿が今戸焼の「座り猫」とほとんど同じポーズ。これで尻尾が腰の辺りに巻いてくれれば、そのものです。土人形の姿全てにおいて写実であるとはいえませんが、少なくとも「座り猫」は実際の猫さんたちの仕草を写したものだと言えるように思います。

陽をあびて気持ちよさそうです。でも仰向けになって伸びたりするにはまだ寒いんでしょうかね。

最近、外に出かけて帰ってくると玄関のガラス戸越にお迎えに来てくれるのは十五夜さん。トイレに入ると、戸の外でいつの間にかお迎えにきている十五夜さん。台所で食事していたりすると2階から呼び声が聞こえたり、台所のガラス戸越に迎えに来ていたりと、気にかけてくれています。
早く暖かくなって(暑すぎるのも嫌ですが)たくさん日向ぼっこできるようになるといいです。

落語「今戸の狐」から★

2015-03-15 10:48:32 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


皆さまご存じの落語「骨の賽」(今戸の狐) 。

以前、知人から寄席の招待券をもらうことが多かったので、割とよく出かけたものですが、この演目は生で聞いたことがないんです。古今亭志ん生師匠所演のCDだけは持っていて聞いています。他の演者のは知らないのですが、細部など違うのでしょうか?



あらすじについては、私などが今さらと思うので省略します。

ここでは、噺の中に出てくる今戸焼の狐について長年不思議に思っていることを記したいと思います。内職で狐の絵付けをしている場面。これは昔、今戸焼の陶工の中に「木地屋」と呼ばれる人がいて、土人形の素焼きまでを専門として、業者が素焼きを仕入れ、別の人間が内職で色付けしていたという話と内容が合います。



噺の一番終わりの場面で、遊び人が勘違いして良助の家に上がり込んできて、戸棚の中の狐についてのやりとりで「金貼り」「銀貼り」という言葉がでてきます。遊び人にとっては「金張り」「銀張り」という博打の符牒が良助が内職で仕上げた狐の仕上げの種類との「金貼り」「銀貼り」と重なってくるところが面白いところですが、この「金貼り」「銀貼り」に相当する今戸焼の狐を私は未だかつて見たことがありません。金箔や銀箔を土人形の一部に貼りつけるのか、それとも全体に貼りつけるのか、、?箔を立体に貼りつけるのは結構面倒な作業のはずです。



2枚目の画像の手前に見える小さな狐のひとつ、黒ずんで見えるのは、これはまがい金泥(真鍮粉)を膠で溶いて塗ったものです。金泥には赤口、青口とあって、いずれも塗ったときにはきれいに輝いていますが時間が経つと酸化するのか真っ黒になります。こうしたまがいの金泥による仕上げは、歳の市で売り出される恵比寿大黒や寒紅の売り出しのおまけの紅丑などによく見られ、またこのような小さな狐に塗られる作例は見られます。しかし箔を貼ったものは見たことがありません。あるいは、どこかに残っていたら、後学のため、見せていただきたいと思います。



画像の狐たちは、今戸焼でお稲荷さんの奉納用に作られた「鉄砲狐」(一説に形が鉄砲の弾に似ているから)と呼ばれるもので、今戸で最も作られていた型のひとつです。地元浅草・下谷のお稲荷様はもとより、都内各地、成田山新勝寺の出世稲荷をはじめ下房一帯、相模のお稲荷様でも見かけていますし、埼玉県内でも、、。また東松山や熊谷付近、秩父地方では今戸の鉄砲狐を真似たよく似た狐も見られます。今戸には他にもたくさんの狐の種類はあったのですが、数の多さからいっても、噺に出てくる狐はこの型のものではないかと思います。作り手もたくさん、大きさもいろいろあったようですが、こうして並べてみると型も微妙に異なり、色も泥絵具だったり染料だったり、面描きのタッチも違います。お人形の吉徳さんに伝わっている天保年間の人形玩具の色手本にも配色が示されていて、台座のしましまは丹と群青、狐の足元は黄色(石黄?)と指定されています。2007_0101_000000p1010209



塗りが新しいものでも、型自体は台の低い型が古い型であると、誰かに聞いたことがあります。



3枚目の画像は私が再現を試みたものです。



ちなみに「骨の賽」ならぬ「土の賽」は今戸で作られていたようです。



YouTube動画 古今亭志ん生(五代目)「今戸の狐」→


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HPが不調だった件、、、、回復していると思います。

2015-03-13 16:09:12 | 日々

先日HPのサーバー移転と不調についてお伝えしました。
ページの枠がばらけているところや、画像が×になって消えてしまったところなどありましたが、本日問い合わせをしながら以前のように画像は元通り見えるようになりました。本文内容などで誤りがあった部分についてはこれから少しずつ訂正をいれていきます。

トップページの「丸〆猫(昭和戦前型)もしばらく消えていましたが復旧してよかったです。何度もお越しいただいている方で、もし画像がまだ見えないという場合はキーボードの「F5」を押すと訂正されるとのことですのでお試しください。

なおHP「東京の土人形 今戸焼?! 今戸人形? いまどき人形」へはこちらからどうぞ。→
下のブックマークのリストにもリンクを貼ってあります。


今戸焼(21)河童の火入れ(尾張屋春吉翁 作)★

2015-03-13 15:35:48 | 今戸焼(浅草 隅田川)


最後の今戸人形師であった尾張屋・金澤春吉翁(明治元年~昭和19年)の作です。素焼きの生地に胡粉で下塗りし、染料や胡粉で着色して仕上げたもの。今戸の土人形であると同時に実用品としての性格もあるので、今戸人形というより今戸焼として採り上げます。この火入れ、前の持ち主が大切にしていたようで、一度割れてしまったものを丁寧に継いであります。

「火入れ」は、背中に口を開け、中に灰を敷いた上に火種を置き、煙草に火をつけたり、また手焙りとして、手をかざしたりして暖をとることもできます。

そういう意味で、手あぶり火鉢の一種と考えてもよいのかどうか、、。

今戸焼にはろくろで挽いて成形し、口を切あけたものもあるのですが、このように前後2枚の型を合わせて成形する人形型のが有名です。



種類としては、尾張屋さんはおかめ型、招き猫型も手掛けていたようですし、近世遺跡からは狸や烏帽子を被った猿なども出土しています。特に有名なのが、この河童とおかめ、招き猫の型ではないでしょうか?



古い錦絵に描かれていたり、また歌舞伎の世話物の場面で神社仏閣の傍らにある茶店の赤い毛氈を掛けた床几(ベンチ)の上に置いてあることが多いです。茶店に限らず、店先などでちょっと一服、なんてところで親しまれていたものではないでしょうか?





尾張屋さんでは、このほか河童の土人形も何種類か手掛けていらっしゃいました。

尾張屋さんの河童の彩色は独特で、緑というよりセルリアンブルーのような色を濃くしたような染料?で着色されています。頭の皿も塗り分けてあり、目がいきいきとしています。



向かって右側面に「尾張屋」の窯印があります。



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今戸人形 「晴れ着」(明治時代・尾張屋兼吉翁作?)

2015-03-12 05:54:27 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


状態がよい人形ではありませんが、形や配色を把握できるという点では「こんな人形もあったんだ!」という作例を知る手がかりのひとつになると思います。新しい「おべべ」を着せてもらってうきうきしている心情の伝わってくる姿ですね。私は昔の「ローカルCM」のお宅なんですけど、この人形を見ると古い関西のCMを思い出します。「まあ きれいにならはって! ええ好みの着物やこと。そいつぁー岩田だよ。岩田呉服店」というのがあるんですが、うれしそうに両振袖を開いて見せたりするんです。まあCMに限ったことではなく、よい着物を身に着けたときにする姿なんでしょうね。

この人形の背面には「尾兼」の彫りがあり、最後の生粋の今戸人形の製作者であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)の養父であった金沢兼吉翁のお作りになった型なんだと思います。色の配色、色材の様子から、関東大震災後の春吉翁の作ではなくて、まだ今戸人形がおもちゃとして現役に作られていた明治時代のものだと思われます。振袖や裾に描かれた菱状の花模様は「羽子板持ち娘」にも見られるパターンですね。目のまわりの赤いぼかしもいかにも今戸人形という感じです。今日では娘さんたちが晴れ着を着る成人式とか大学の卒業式くらいなものなのかもしれませんが、思わずこんなポーズととってしまうということがありそうな気がします。(眉の描き込みがないので、既婚の女性なんですかね。でも着物や仕草は若々しい感じに見えるんですが、、。結髪的にはどうなんでしょうか。)

 

 

 

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お知らせ「中野ひな市」

2015-03-10 16:33:58 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)


お世話くださる方がいらして、今年の信州「中野のひな市」での「全国土人形販売」の枠に入れていただくことになりました。
「ひな市」は例年3月31日と4月1日の2日間、長野県中野市で行われるもので、全国から「中野の土びな」を求めて愛好家が殺到するので有名ですね。恥ずかしい話、湯田中温泉を兼ねてぶらりと中野へ行ったことはあるんですが、「ひな市」の当日はまだ現地にいたことはありません。「中野の土びな」がこんなに人気があり、町の挙げての全国的行事にまで発展したのは、ひとえに作者の「奈良政治さんと久雄さん」の人形作りに対する一途さと出来た人形の入念さが人を惹きつけるという事実に尽きますね。現役の日本の土人形産地の中で圧倒的な人気です。(今さらここで言うことでもないんですが。)
 ただ一度中野へ行ったことがあるのは、自分で土いじりを始める前だったかと思います。既に中野市内に「土人形博物館」が小高い丘の上だったかにありました。「松川」という駅だったかから歩いたところに「奈良さん」の家があり家の前にドラム缶でできた焼成窯がありました。
玄関に張り紙がしてあって「ひな市準備のため、人形はお売りできません」といったような貼り紙がしてあって、「そうか?もうすぐ雛市なんだ」とそこで認識したんです。馬鹿ですね。でもせっかく来たので玄関から「仕事場見せてください」ってお願いしてあがらせていただいたんです。たぶん「抜け駆けで人形を買いに来た不心得者」と思われたようでしたが「仕事見せてもらうだけでいいんです。」とお願いしたら、「どうぞどうぞ」とお忙しい中見せてくれました。注文ノートみたいなものがあって何年待つかどうかわからなくても欲しいという人が既にぎっしり種類と住所、電話番号など記入してあって、ミーハーなところで、自分も数種類記入して帰りました。「一年半くらいあとで問い合わせてください。」と言われたんですが、その後には自分の関心が現在の方向に気持ちが固まってきていて、手紙で「昨年ノートに何種類か作ってくださいとお願いしたのですが、申し訳ありませんが、他の方にお回しください」なようなキャンセルの要件でお送りしてしまって失礼なことをしてしまったな。と今でも申し訳なく思ってます。でもお忙しそうだから、、、。
 時代はもっと遡って、中学生の頃、赤坂TBSの近くに「撰・大木」という民芸店がありました。広くはない店内にはこけしから土人形、張り子など愛好家垂涎の的になりそうなものがぎっしりと詰まっていて、お年玉を握りしめて出かけていましたね。毎月催事案内のハガキが送られてきて、マンスリーに作者の人が店内で実演して仕事を見せてくれるというのがあり、奈良さんも実演されているのを観に行きました。
「うちの胡粉は伏見で使っているような上等なものではないんだよ。」とか中学生だった自分に話してくれたのを思い出します。
 奈良さんの人形に纏わる思い出は他にもあって、昔、日本橋の東急百貨店(白木屋)で毎年正月に「全国郷土玩具展」という催事があって、全国の作者から届いた郷土玩具が手に入るということで初日の開店時間というものは大変なものでした。玄関が開くとエレベーターに走る人(エレベータに一番乗りに乗っても後から入った客が先に降りることになってしまう)何番のエレベーターからでないとあそこの曲がり角で転ぶとかいろいろベテランの人が作戦を練っているみたいでした。運動の苦手な私でもまだ若かったのでエスカレータを駆け上ったりして、目指すは土人形コーナーの「奈良さん」のケースなんです。一度ケースの真ん前に早く辿り着いて手に取ろうとしたら、後ろから何十人という人が押してきて、その圧力でガラスケースが「バリバリ」割れてケースに陳列してあった出来上がった人形が倒れたり落ちたりしてこなごなになり、血が散乱したこともありました。(私も手を切ったひとりで保健室で手当てを受けました。恥。)常連の人には複数でタッグを組んで如何に能率よく中野人形をゲットするか戦術を練ったりしてる人もいたような、、。いつも黒いジャンパーを着ている人だったな、、。「日本人は浅ましいね。」ってフランスご出身の人形愛好家が眉をひそめてました。(自分もそのひとりなんだろうな、と。)
 余計な思いで話になってしまったのですが、「ひな市」もそれくらい全国から欲しい人が集まって「冬空の下2日前3日前から並んだ」とかそれでもダメだったとかいうような話も聞いたことがあります。あと郷土玩具愛好家の間で「人形が欲しければある人に拝み倒してまわしてもらう、、、その人は自分が如何に奈良さんと懇意にしているかということで天狗だとか、でも他の人間が奈良さんと親しくなると不機嫌だとか、、、。」という話も聞いたり、人気がありすぎて、欲しければ試練をくぐって、、。みたいな話をいろいろ聞きますが、今では中野市のほうでいろいろ混乱とならないような対策とかシステムとかをしっかり検討されているのではないでしょうか。

奈良さんのお人形は大小にかかわらず祈るかのように心を込めて作られていて細部にまで気が入っています。だからこそ人を惹きつけるんですね。(あんなに手間がかかっているのに、奈良さんの原価がそんなに高くないというのもすごいことです。まさに人間性。もっとも世の中には廉価に入手して信じられないようなマージンをふっかけるブローカー的な人もいるようです。)
いつかまた仕事場を見学させてもらって人形作りの基本的なものを学ばせてもらえたらな、、と思います。当然産地によって型が違うとか配色とか装飾の仕上げ方が違うのですが、材料の扱い方とか基本的なものは共通していると思います。
今回、「全国枠」に入れていただき(20年くらい前に他の方のお世話で招き猫ばかりを出させていただいたことは一回だけあったのですが)当然買ってくださる方がいらっしゃればうれしいですが、何よりも拙作の世間様の目に直接触れる機会となって欲しいと思っています。荷造りしている画像を張り付けましたが、これらは無事現地に届いたとのことでひとまず安心しました。
中野にお出かけの方、ついでがあったら拙作のもご覧くださいませ。(規定により一種類一点の出品ということなので数的にはそんなに送っておりません。)

中野ひな市HP→

 

 

 

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今戸焼⑪ 紅塗りの手あぶり火鉢 その②(白井半七 作)★

2015-03-10 15:59:44 | 今戸焼(浅草 隅田川)


手あぶり火鉢です。陶印には「白井半七」とあります。「白井半七」といえば、今戸焼に関する記述には必ず出てくる作者ですね。とりあえず「東洋文庫」の黒川真頼著 前田泰次 校注「増訂 工芸志科」から引用します。この本は明治11年刊の「工芸志科」上下二冊(博物局版)と明治21年刊の同書「増補訂正 工芸志科」(宮内省博物館蔵版)の2種類を本に基づいて校注したものだそうです。その今戸焼の項より、、。

○貞享年間、土器の工人白井半七という者あり、今戸に於いて始めて店茶家に用いる所の土風炉を製し、又火鉢等の種々の瓦器を造る。世人是れを今戸の土風炉師と称す。尋で其の地の工人これに倣い業を開く者あり、漸く数戸に及ぶ。



○享保年間二世白井半七という者、始めて瓦器に釉水を施し楽焼と等しき者を製す。爾ありてより以来工人又これに倣い、業を開く者数十戸に及べり。多くは食器にして雑記は甚だ尠し。衆人之を用呼んで今戸焼という。



○三世も亦白井半七と云う。四世も亦同名なり。後に蘆斎と号す。五世も亦同名にして蘆斎と号す。初世より以下数世、土風炉及び楽焼きを製す。その他の職業年序を経て漸く盛んなり。又婦女の塑像を造る、翫弄物なり。其の製伏見人形に似て甚だ麁朴なり。而れども精巧ならざる所に奇作ありて、好事の輩は今戸人形と唱えて之を愛翫す。



○明治年間六世白井半七、世業を襲ぎ土風炉を作り、又楽焼を能くす、最も名声あり。(中略)其の他の工人土器及び楽焼き塑像を製する物多し。其の戸数遂に四十に及ぶ。其の他の工人業を営んで今日に至る。



これは明治21年に訂正刊行されるまでの流れです。6世半七までの記述で終わっていますが半七の名前は9世まで続いています。



7世白井半七(1857~1933)は今戸で業を継いでいたが、関東大震災に遭い、兵庫伊丹に招かれて、伊丹に窯を築いた。養子の半次郎氏(1898~1949)が8世半七を継ぎ、関西で茶陶を製作していたが、小林一三氏(阪急電鉄会長、宝塚歌劇の創始者)に請われて、宝塚市に窯を移した。九世半七(1928~1987)は戦後、宝塚市の都市化に伴い三田市の郊外に移し、昭和62年に亡くなったとあります。



手あぶりの話に戻ります。この手あぶりも橋本三治郎のと同様、磨いてからべんがらを混ぜた漆で仕上げてあり、胴のところに、桜の花やつぼみの模様が刻まれています。代々の半七の陶印や銘がいろいろありますが、どれが何代目のものか虎の巻があればいいのですが、今のところそういうものが存在するのかわかりません。



今戸で製作していて大震災に遭い、伊丹に移住したのが7世で、7世までは「墨田川 半七」という陶印を使っていたという話ですが、これも作品によりけりでひとりの人物が色々な印を使い分けていたということもありそうなので、ご専門の方がいらっしゃったら、教えていただきたいです。



この手あぶりには「白井半七」の印だけですが、関西へ移ってからの半七の作品は関西の茶人の好みに合わせ、上品な作風になっているようなイメージを持ちます。それからすると、橋本三治郎の製品とも共通点をもつ、この手あぶりは、まだ今戸で作られていた時代のものではないかと思うのですが、所詮素人考えで、わかりません。



「桜=隅田川」という趣向なのかわかりませんが、桜の花の陰刻のある今戸焼の他の器物についても記事でとりあげていますのでお時間ありましたらご覧ください。



隅田川の灰器(白井善次郎作)→



炉台(橋本三治郎作)→



紅塗りの手あぶり(橋本三治郎作)→



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新刊「はじめましての郷土玩具」(甲斐みのり 著)

2015-03-07 22:43:18 | 仕事場(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

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昨日、グラフィック社(出版社)より包みが届き、開けてみると一冊の新刊。先月中にメールで出版社より郷土玩具の製作者一覧を巻末に掲載するため住所連絡先等の情報について確認して欲しいとの連絡がありました。その関係で一冊献上ということでくださったんだな、と理解してぱらぱらページをめくってみると拙作のものも図版に掲載されていただいていたんだな。とわかりました。

開いて右のページに2体の羽織狐。右の大きなほうが拙作のものです。(最後の生粋の今戸人形師であった尾張屋・金沢春吉翁(明治元年~昭和19年)のお作を手本としました。)でもすごく以前に作ったもの。おそらく30代の頃でしょう。添えてあるサイズを見ると、これははじめて作った一番型(すごく大きくて、大きい大きいと人から言われた)ではなくて二番型(一番型から抜き出して焼いたものから更に型取りしたものを修正してから作った型)のようです。でも今から見ると一見別人が作ったと思えるほど現在とは異なったオーラを発しているような、、。決して昔作った自分の人形がダメだというのではなくて、その当時の感覚が、更に歳をとってしまった現在のものとちょっと違って見えるというか。面描きひとつとっても、この写真の頃のほうが筆は細く鋭かったような、でもかなり慎重に筆を運んでいたような、、。一緒に写っているもう一体の羽織狐は(茶色の羽織)は台東区清川の「玉姫稲荷神社」のご神職が自ら彩色して授与されていたもの。(現在でも基本的にそうなさっていると思います。)素焼きの人形の木地は今戸の白井さんです。白井さんは白井さんでご自分で彩色したものを出していますが、玉姫稲荷から授与されるものは、白井さんの彩色のものではないのです。かつて戦前には玉姫稲荷境内の「口入稲荷」から授与されるものは今戸「長昌寺」そばにいた「鈴木たつ」という女性の作者が一手に納めていたもので、それより昔には尾張屋さんのものも納められていたであろうと思われます。口入稲荷のお社の中には戦前の「鈴木たつ」さんの作が4体くらい保管されていたように憶えています。尾張屋さんの「羽織狐」と鈴木たつさんのそれとは構図はほぼ同じですが微妙にモデリングが異なり、その最たるところは前後の厚みです。鈴木たつさんの羽織狐は信じられないくらい薄くできているんです。彩色についても基本的には似ているのですが丁寧な尾張屋さんに比べ鈴木たつさんのは殴るような速筆ですが押さえるところはツボを押さえた熟練の筆でダイナミックです。ここまでだらだら書いてきて、何が言いたいか、というと尾張屋さんと鈴木たつさんの着物をからげた下の部分「股引き」あるいは「パッチ」の彩色のことなんです。
尾張屋さんは群青と胡粉を混ぜた水色で塗り、足の甲は白く残し、草履の厚みに黄色を置いて鼻緒を描く。鈴木たつさんは墨で一気に足先まで黒く塗りつぶすという手法の違いがあるんです。写真の「玉姫稲荷」のご神職の彩色は眉毛や髭もしっかりと描いていて、「股引き」あるいは「パッチ」部分を黒く塗りつぶすという点で、鈴木たつさんのやり方を伝えているのだということが言えます。白井さんによる木地では本来の足の甲のあった部分を削ってなくしてあるのですが、それでも「玉姫」のご神職は昔式に塗ろうとしているんですね。

3枚目の画像は掲載されているイラストによる全国の郷土玩具の分布地図の一部で、おそらく拙作の羽織狐を描いてくださっているんだと思います。ケチをつけるのではないんですが、着物をからげた下は水色で「股引き」として塗り分けるのを忘れたか、それとも白井さんの羽織狐と混同されているかということなんです。(2枚目の画像には薄いですが水色に塗ってあります。)白井さんの羽織狐は昭和40年代頃のものから既に足の甲の出っ張りは削って省略してあり、足全体を白く塗り残してあるのです。(つまり下には何も履いていない。草履も履いていない。赤い点々は鼻緒ではなくて爪のつもりの表現?)戦前までの羽織狐の場合、尾張屋さんでも鈴木たつさんでも色は違っても下には「股引き」「パッチ」を履いているものだという認識で彩色されてきたんです。それが江戸明治以来の今戸人形の配色の常識のひとつだったのだと思います。ちなみに白井さんの羽織狐は眉毛も髭もなく、鼻と口の部分は一点の赤でまとめています。こうした鼻と口の描き方というのは「鉄砲狐」とか「狐馬」の狐などには昔からされている「省略としての」やり方ではあるんですが、羽織狐に関しては尾張屋さんも鈴木たつさんも鼻腔と口とを描き分けているんです。この点も「玉姫稲荷」のご神職は守っていらっしゃるんですね。見開きの画像に戻って、左のページの上段の鉄砲狐も拙作の浅草神社(三社様)裏の「被官稲荷」(被官さま)のものをとりあげてくださっています。どうもありがとうございます。

「はじめましての郷土玩具」(甲斐みのり 著)
グラフィック社 定価(本体¥1600+税)


今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」(尾張屋春吉翁 作)→

今戸人形「口入稲荷狐・羽織狐」(鈴木たつ 作)→

 

 

 

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今戸 縁結びエイリアン招き猫のデザイン

2015-03-06 10:02:21 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)




上3枚の画像は昨日アップした記事からのものです。ここ今戸町内にある神社の境内に点在するオブジェやポスターが1枚目の画像の¥3000のエイリアン招き猫のプロモーションとしてリンクするよう導線が用意されていた、と考えたのですが、時間を置いてみて、どうしてこういう姿が生まれたのかな?という疑問が湧いてきました。

そのルーツは常滑の招き猫にあり、常滑の招き猫から生まれた2匹の兄弟。戦後型の豪徳寺の招き猫と戦後昭和30~40年代から「今戸焼」として作りはじめられた招き猫。人呼んで「常滑亜系今戸焼招き猫」。

戦後型常滑亜系「今戸焼」の招き猫は神社からの注文により2匹を合体させたものを白山さまの「縁結び」に引っ掛けて「縁結び猫」として昭和60年代から平成はじめにかけて売り出した。(昭和12年「今戸八幡」と亀岡町「白山神社」が合祀され「今戸神社」となる以前は「招き猫」も「縁結び」についても記録されたものは確認されていない。)2連にするという発想も焼き物の先進地である常滑の2連、3連の招き猫からインスピレート?(ぱくレート?)されたものとも考えられる。目の描き方は常滑を意識したものの十分似せて描ことができなかったのが、その後「今戸焼招き猫の特徴」となり、以後今戸町S家で産する招き猫にはすべてこの「常滑をもととする」目が描かれている。

しかし土人形の家内生産では、ご神職の望み通りの大量生産ができず絵馬や看板などは別に発注しなければならないので身内でデザインし直し(身内にお絵かきが好きな人間がいた。)ついでの授与用のの招き猫自体も品切れることのないように瀬戸(または中国)へ発注させた。しかし、鈴をリリアンで通して結ぶのは手間がかかり仕込みのコストが嵩むので型の彫りに戻した。新デザイン「エイリアン招き猫」が登場したのはいつごろからであろうか平成7~8年頃出版の招き猫関係図書には見当たらないので、その後「常滑亜系今戸焼縁結び招き猫」が地下鉄の中刷り広告で世間一般に知られるようになってからのことと推定される。新デザインのためにインスピレート?(ぱくレート?)されるソースとなった人気キャラクターがいくつか考えられる。

↑「ミッフィーちゃん。」(原作 ディック ブルーノ さん)(口鼻の×と両目の間隔に注目)

↑サンリオさんの大看板「ハロー キティーちゃん」(ヒゲに注目、両目の間隔にも)※なお、神社の縁結び円形絵馬のデザインには「おひなさま風」のもあり、画像の「キティーちゃんのおひなさま」からのインスピレート?(ぱくレート?)は少なからずあるように考えられる「他人のそら似」だろうか。なおキティーちゃんの仲間には黒い瞳の中に白ぬきのある子もいるようである。


↑そして「ニャース」(「ポケットモンスター」(株)ポケモンさん、(株)任天堂さん。(特に目)

↑そして「縞野はな」(ベネッセコーポレーションさん)(瞳の中の白抜き)

かくの如く、今戸の縁結び招き猫(エイリアン招き猫)はさまざまな品種の交配による莫大な労力と苦労の末生みだされた血と汗と涙の結晶であるということがわかり、感慨深いものがあります。

♪風の中のすーばるう~ 砂の中の銀河あ~ みんな何処へ行ったあ~ 見送られることもなくう~ ♪「プロジェクトX・挑戦者たち」

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「豪徳寺の招き猫」→
「豪徳寺の招き猫(続)」→

 

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ナンダコレハ

2015-03-05 00:24:30 | 今戸焼招き猫(浅草 隅田川)


先日春吉翁のご墓所のお参りのついでにすぐ近くの今戸町内にあるホットスポットに寄ってきました。行くのがはじめてというわけではありません。上野不忍池そばに勤めていた時代ですからかれこれ20数年前にここにある由緒のある狛犬の台座の拓本を取りに来たことがありました。それ以来です。今戸へはご墓所へのお参りにお彼岸やご命日、羽子板市の前後など年数回は来ていますが、何だか怖い、怖い現実を目にするのが怖くて足を運ぶことをしなかったのです。
今回意を決して踏み入れました。(ミステリーゾーンのよう?)インターネットとか出版物で神社についての記事は見たことがあるのですが、細切れの画像のイメージだったのもがジグソーパズルが完成に向かうように広がります。
早速ご社殿の正面に画像では知っていた張りぼて製の巨大招き猫が、、。「手をあげて 横断歩道を渡りましょう」って感じ。

先日、豪徳寺の戦後型招き猫と戦後生まれの今戸焼招き猫とのプロポーションの比較から両者とも常滑系の招き猫を母胎とする兄弟ではないかという考えを記しました。そして縁結びダブル招き猫も常滑亜系なのではないかという結論に至ったばかりです。それらが授与されるのがこの神社なはずですが、この時には授与されていない上(順番待ちとか完成待ち?)境内あちらこちらに点在する大小のオブジェの招き猫たちがまた違う姿をしているのです。
このご社殿の巨大招き猫は何なんだろう?「常滑系今戸焼大人気ダブル猫」とは違うし、おそらく常滑招き猫をデフォルメしたものという感じでしょうか。自ら「招き猫発祥の地」を名乗っているのに江戸時代由来の今戸型の招き猫ではなくて常滑もどき???。不思議。

ご社殿のそばに手描きの看板(ポスター?)があり、「テレビや雑誌で紹介されている 石のなで猫 ♂ナギくん ♀ナミちゃん」とある。ちょっとエイリアン的な風貌でご社殿の招き猫とも「常滑亜系今戸焼ダブル招き猫」とも違う。その隣に立っているのが、「テレビや雑誌で紹介されている 石のなで猫 ♂ナギくん ♀ナミちゃん」でしょうか。「叶えてくださるようです。」って自分で作っておいて「お手盛り」?

台座に「お江戸は浅草 今戸で生まれ 愛され続ける 招き猫」とあります。でも上に立ってる2匹のエイリアン風の猫は今戸人形の古典の横座りの招き猫ではないし常滑亜系の今戸焼ダブル招き猫とも違うエイリアン猫。(♪ユッ フォー♪)(「♂ナギくん ♀ナミちゃん」というより「ミーちゃんとケイちゃん」という感じ)あと悪いんだけど「お江戸は浅草 今戸」ってあるけど浅草橋の近くの「浅草御門」の外(つまりそれより北側)はもう江戸の市中ではないんだよね。お江戸は「浅草御門」までだと教えられたんだよね。

、「テレビや雑誌で紹介されている 石のなで猫 ♂ナギくん ♀ナミちゃん」のそばにはネコポットの大群(made in china???)とポトスの蔓とによるガーデニング?"welcome"ってあります。
地下鉄で有名になった「常滑亜系の今戸焼ダブル招き猫」

こういう「常滑系今戸焼ダブル招き猫」が境内にほとんど見られなくてどうなっているんだろう???と思ってお守り売り場を見て納得。

なるほど、、すべてが三方の上の磁器製の招き猫「今戸神社招き猫(エイリアン招き猫) ¥3000也」のプロモーションってわけですね。¥3000¥3000¥3000
「テレビや雑誌で紹介されている 石のなで猫 ♂ナギくん ♀ナミちゃん」「お江戸は浅草 今戸で生まれ 愛され続ける 招き猫」の姿とリンクさせてあるんですね。でもこれって「今戸焼」じゃないじゃん。素材どころかデザイン自体が今戸焼の歴史と関係ない。「瀬戸に発注した量産品」それとも「中国へ発注したもの」?それとも「ダ○ソー」とか100均ショップに大量発注したものか?何も知らない人だったら「今戸焼」だと思い込んで買っちゃうよ。

大抵お寺や神社って鎮座する土地の歴史や文化の伝承保存に積極的であるようなイメージを持っているんですが、このお社はその点ユニークといったらいいのか。今戸に鎮座しているから昔からの「今戸焼」を守る気はなくて、歴史と全然関係ない「エイリアン招き猫を」「今戸焼であるかのようにすりかえる???」ことに前向きであるかのよう。ナンダコレハ。。。。。

こんな歌ご存知ないですか? ♪インドの山奥で 修行して ♪ ご存知? 70年代実写ヒーローキャラの「レインボーマン」。これを知っている人だったらイメージ共感してもらえるかと思うんだけれど「おたふく会」というのがあったでしょう。似てませんかね~。

何とも奇妙。「お茶漬けに生クリーム」「プリンアラモードにいかの塩辛」「鉄火巻きにウスターソース」「ジェラートの上に酢豚」、、、、、、

「豪徳寺の招き猫」→
「豪徳寺の招き猫(続)」→

 

 

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乾也雛と○草雛

2015-03-03 21:19:29 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

今晩こそは「ひゐなの宵」ということになりますか。だいぶ前に「乾也雛と浅草雛」という記事をアップしたことがありました。
その続きということで記してみたいと思います。
最初の画像は当然ながら我が家の手持ちの人形ではありません。三浦乾也作の「室町風土雛」です。
モデリングもさることながら彩色の描き込み、、すごすぎます。展示のガラスケース越に撮ったものなのでちょっとぼやけていますが描き込みのすごさはおわかりになるかと思います。底にだったか背面にだったかへら彫りで記してあったかと思いますが、展示の仕方で廻って観ることができません。
これって型つくりなのか、完全に一品ものの手づくねのものなのかも触ってみないとわかりません。

2枚目の画像は手持ちの土雛で供箱。「深草雛」と記されています。上の乾也作の雛とは違いますが、雰囲気としては似た方向性のものではないかと思っています。一番眼につくのは台に描かれた「繧繝縁模様」(うんげんべりもよう=グラデーション風のたて縞模様)です。顔がお団子にちょこっと可愛い鼻をつけた様子も方向性としては近いと思います。今から4年か5年前、これの実物を見たくて、京都府総合資料館の「みかづきコレクション」蔵の同様の作の閲覧申請をして8月の末の京都へ一泊二日の強行軍で出かけたのです。更に遡ること今から30年くらい前だったか、玩具研究家の故・斉藤良輔さん監修だったかの「日本の人形」だったか「雛」だったか、新聞社から出版されたムック本があり、その中で郷土雛の東と西というテーマでカラー図版があって、その中に、この手の人形が「今戸人形」として紹介されていたこと。それが「みかづきコレクション」のものだということは後に藤田順子さんの「母と子のお雛様」だったか「お雛まつり」だったかに同じ画像で紹介されていたことで知りました。また「お人形は顔が命の吉徳さん」の先々代・山田徳兵衛さんの「人形百話」だったかによく似た人形の白黒画像があって「浅草雛」というものであることを知ったのです。京都まで閲覧に行った後、ほとんど同じつくりの現物が我が家に来たわけですが「深草雛」の箱書きがあって、「あれー?」という感じがするのですが、先の「繧繝縁模様」にしても乾也の雛とよく似たパターンなのはまったくの偶然ではないのだろうと考えています。「みかづきコレクション」にはしっかり「浅草雛」として登録されています。「浅」と「深」の一文字の違い。「かはらけは深い浅いの土で出来」という古い川柳がありますね。清水晴風の「雛百種」の中に浅草だったか江戸だったかの雛が含まれていて、この画像のに似た傾向のものだったような。そして以前アップしたことがある今戸人形の「一文雛」もお団子顔系です。
これら地下で何かしらつながっているのかどうかと思っています。せっかく我が家に来てくれたお雛様なので、いずれお手本として作ってみたいとうずうずしています。乾也作の「室町雛」に比べると地味にも見えますが、これでかなり描き込みのあるお雛さまです。

「乾也雛と浅草雛」→
今戸人形「一文雛」→
今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁 作)→
今戸人形「一文雛と五人囃子」→

今戸人形?「ちょっと変わった裃雛」

2015-03-01 18:15:45 | 今戸人形(今戸焼 土人形 浅草 隅田川)

3月に入りました。日々の雑事の追われて気がつかないことが多い中、春は着実に近づいています。昨日のご墓所参りで隅田公園には既に盛りの過ぎた紅白の梅の木々が見られたり、うちの町内の比較的人通りの少ない細道の梅の木や椿の木の間をたくさんの「めじろ」が飛び交っていました。まだグレイな地面にもぎざぎざのタンポポやタネツケバナの小さな葉っぱが放射線状に貼りついていました。雛まつり目前。これまでいくつかの今戸人形のお雛様やその周辺のお人形をとりあげてきましたが、ちょっと不思議な感じのものがしまってあったのに気がついてアップしてみました。
今戸焼の土人形のお雛様といえば、一番ポピュラーなものであったであろう「裃雛」です。伝世品として残っているもの、近世の遺跡から大量に出土する遺物の量から見ても、今戸人形のお雛さまを代表するものだと思います。以前にもスタンダードな裃雛をアップしていますが、今回のは感覚的にちょっと違う?ような気もするのです。構図としては裃雛そのものですがモデリングとしては前後の肉付けが厚く、ぼってりとした印象。男雛の顔がややたて長で首が埋まっているように太い。女雛のあご周りは特に丸みを帯びて「肝っ玉母さん」の故・京塚昌子さんをイメージしました。ガラ(土玉)は入っておらず振っても鳴りません。面描きの筆があまり延ばさずちょこっとしたタッチですが筆の穂先は鋭く、慣れた筆使いではあります。(尾張屋春吉翁のタッチにも似てはいるような、、。)でもこんな感じの面描きの裃雛は我が家にはこれ以外ありません。
ひとつ気がつくのは帯紐と櫛?の部分に使われている銀(アルミニウム粉)です。銀で思い出すのは今戸人形の流れを汲む千葉県飯岡の土人形。あまり見たり触れる機会の少ない人形ですが、かなり末期に近い飯岡人形の裃雛の図版では着物の群青色の上に、粒子のかなり細かい銀色の粉を叩きつけてあるのを記憶しています。飯岡の人形といえば、かなりダイナミックな筆使いで子供の描画にも通じる野趣にあふれた作風というイメージがありますが、実際のところ画像の裃雛は「飯岡人形」の初期に近いものなの?」「今戸人形」なのか?頭をひねっているところです。

また男雛の底には古い三越の値札(たて書き)が貼りついていて「♯9 壱號 拾参銭」と記されているので、土雛が大人の趣味家の収集対象となり、三越呉服店(または百貨店)の陳列会場で即売されていたものではないかと想像しています。お詳しい方にお教えいただきたいところです。

今戸人形の雛やその周辺に関するこれまでの記事

今戸人形「裃雛」(江戸時代後期)→
今戸人形「裃雛」(明治時代)→
今戸人形「裃雛」(尾張屋春吉翁作)→
今戸人形「一文雛」→
今戸人形「一文雛」(尾張屋春吉翁作)→
今戸人形「一文雛と五人囃子」→
「乾也雛と浅草雛」→
今戸人形「官女」→
「今戸の土偶で雛まつり」→
「地口ゑ手本から①」→

拙作「仕事場」での記事「身に余る光栄」→

「吉徳さんと裃雛」→