那珂川町の最南端に位置する五ヶ山。現在は多くのものがダムの底に沈んでしまい、かつての姿を見ることはできなくなってしまったが、その歴史は興味深い。昨年、色々と調べていたところ、大変貴重な資料を見つけたので、少し紹介したい。
そもそも五ヶ山という名は、(すでにダム湖の底に沈んでしまったり、ダム施設のため造成された)五箇村(網取、道十里、桑河内、東小河内、大野)に由来している。標高は約500m前後、背振山や九千部山を源流とする那珂川の上流域にあり、山紫水明の自然豊かな場所だった。風土記には、五ヶ山の風土を「筑前・肥前の境にあり、山中境内は狭く、田畑も少ないが、人家は多く、茶を多く植えて、家産」と記してある。
ここは、佐賀県吉野ヶ里町(旧東背振村)に接しており、かつて筑前博多(福岡)と肥前神崎(佐賀)を結ぶ「肥前・筑前街道」が通っていた。平安末期、肥前神崎にあった皇室領の荘官となっていた平忠盛が博多港へ年貢米を運ぶため、この道を使ったと言われている。戦国の世になると、五ヶ山は博多の権益を狙う武将達の戦場となった。そのため山中に城郭が多い。江戸時代には、背振山頂をめぐり筑前藩と肥前藩との間で10年に及ぶ激しい国境争いが起きた。それで街道沿いには国境石(くにさかいいし)が多く見られる。
興味深いのは、1813年9月28日、江戸幕府の測量方だった伊能忠敬隊(※別手組)がこの「肥前・筑前街道」を測量していたことである。資料を見ると、一行は、佐賀県小城から背振坂(現在の坂本峠)を越え、五ヶ山から市ノ瀬~山田(肥前・筑前街道の起点・終点)を通り、福岡道から福岡城へと至っている。街道沿いには多くの史跡が残され、平成8年、文化庁から「日本歴史の道100選」に選定されている。翌9年、「那珂川町郷土史研究会」がこの道を研究調査しており、「肥前筑前街道背振坂越」という資料を出している。見ると、伊能忠敬隊が測量した足跡が詳細に記されており、一部、国道385号線として使用されているところもある。ただ残念ながら、五ヶ山では大半がダム湖になってしまったため、伊能忠敬隊が通ったとされる道を歩いてみることはできない。(下図参照)
※伊能忠敬測量隊は佐賀県小城で2手に分かれて出発。一つの組は三瀬峠~曲淵を通り、早良街道から福岡城へ入っている。
ところで、今年10月、那珂川町は「那珂川市」へと変わる。そのため町では市政施行記念行事が目白押しである。「NHKのど自慢」もやって来る。また、五ケ山ダムに多くの観光客を誘致しようと、ダム周辺ではキャンプ場などの整備が進んでいる。今月11日からは、五ヶ山エリアの愛称募集もはじまった。そこで、この地を離れて行かれた人達の思いを込めて提案をすることにした。那珂川町にメールを送ると、早速、返事が返ってきた。発表は来月中旬だと。果たして、思いは届くだろうか。
参考にした資料(那珂川町図書館所蔵)
伊能忠敬測量隊が通った道を記した地図 修学院から五ヶ山まで (地図は「肥前筑前街道背振坂越え」より)
下の平面図をもとに五ヶ山ダムを描いてみた 黒線は伊能忠敬隊の通った道 (地図は「那珂川町の街道をゆく」より)
肥前街道は写真左の山中にあったとみられる 写真中央は385号線(2016年7月撮影 坂本峠から大野)
こちらは先月の様子(同上場所) 貯水量は少なく目標水位までおよそ20m(4月16日時点)そのため併用開始は1年遅れ
《関連資料》
・那珂川町HP。那珂川町の最南端 五ケ山エリアの愛称を募集します。(2018.4.11)
《関連記事》
・那珂川町のアウトドアスポーツの拠点 五ケ山地区の愛称募集(西日本新聞 2018.4.18)