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ヘイトスピーチ法でアイヌ民族差別も規制を 東京の北川さん訴え

2016-04-21 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/20 05:00、04/20 08:53 更新
 東京在住でアイヌ民族の北川かおりさん(50)が19日、 ヘイトスピーチ (憎悪表現)の対策法案をめぐる国会内での集会に参加し、アイヌ民族への差別的言動も規制対象に加えるよう訴えた。
 北川さんは、札幌市議が2014年、短文投稿サイト「 ツイッター 」に「アイヌ民族なんて、いまはもういない」などと書き込んだのを機に、街頭 デモ やネット上でアイヌ民族に対するヘイトスピーチが広がっていると説明。自身の弟が差別で婚約破棄に追い込まれたことも打ち明けて、「周りのアイヌ民族が何人もうつ病で倒れ、非常に深刻だ」と訴えた。
 ヘイトスピーチをめぐっては与野党がそれぞれ独自の法案を国会に提出。野党案はヘイトスピーチの禁止に主眼を置いているのに対し、与党案はヘイトスピーチ解消のための相談体制の整備や教育・啓発活動の充実が柱で、アイヌ民族は対象に含まれず、禁止規定もない。そのため、北川さんは集会で「与党案もアイヌに対するヘイトスピーチを禁じてほしい」と求めた。
 与党は北川さんらの訴えを受け、アイヌ民族も対象とする付帯決議を行う方向で検討に入った。与党案は同日、参院法務委員会で審議入りし、自民党の西田昌司委員は「アイヌ民族にもヘイトスピーチは許されない。実りある立法にしたい」と述べた。
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0261354.html

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アイヌ文様刺しゅうふんだん、白老の2カ所で衣服展

2016-04-21 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2016年4月19日(火)朝刊】

アイヌ民族の衣服文化の豊かさを伝える特別展「フッチ・メノコたちの手わざ」
 アイヌ民族の衣服などの展示会が、白老町内のアイヌ民族博物館としらおいイオル事務所チキサニで開かれており、アイヌ民族の衣服文化の豊かさを伝えている。
 同博物館を会場にした「フッチ(おばあさん)・メノコ(女性)の手わざ」と銘打った特別展は、文化庁衣服複製事業で製作した65着の晴れ着を週替わりで展示する。5月10日まで。
 刺しゅうがふんだんに用いられた色彩豊かなルウンペ、木の皮を糸にして織って作られたアットゥシ、木綿の布地に「切り伏せ文様」を施し、刺しゅうしたチカラカラペ、木綿の上に幅の広い白布の「切り伏せ文様」を張り付けたカパラミプ、木綿衣に刺しゅうだけで文様を施したチヂリなど。
 アイヌの衣服の作業手順を伝えるDVDを放映している。アイヌ文様刺しゅうを施したタペストリー、ショルダーバッグ、きんちゃくなども並んでいる。関連企画「折り紙でルウンペをつくろう」が5月5日行われる。折り紙で着物を作り、アイヌ文様のシールを張って完成させる。料金は500円。
 白老のアイヌ文様刺しゅうサークル「フッチコラチ」(岡田育子代表)による作品展は、若草町のチキサニを会場に6月下旬まで開かれる。
 アイヌ文様刺しゅうの伝統衣装やタペストリー、バッグなど35点が並ぶ。「一針一針愛情を込めて縫い物をしたおばあさんのようになりたいとの思いを持って、貴重な伝統文化を守り続けるため頑張っています」と同サークル。岡田代表は町指定の無形民俗文化財・伝統文化継承者。
 川沿生活館で毎週木曜日、例会を開いて刺しゅう作りに取り組んでいる。チキサニは「作品の素晴らしさをぜひ、この機会にご覧ください」と来場を呼び掛けている。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2016/04/19/20160419m_08.html


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アイヌ語教室広報誌を電子化 二風谷で活動、89号で休止

2016-04-21 | アイヌ民族関連
北海道新聞 04/19 10:00、04/19 13:14 更新

二風谷アイヌ語教室の広報の冊子とパソコンを手にする発行責任者で同教室運営委員長の川奈野一信さん(右)と萱野さん
 【平取】1988年から20年以上にわたり二風谷アイヌ語教室の活動を伝えてきた広報誌が電子書籍になった。受講生の話や伝承者へのインタビューを掲載した89号分のデータをDVDに収めて道内外の図書館などに送付。関係者は「二風谷の歴史を知る機会がひろがれば」と期待を寄せている。 
 広報誌は、現在は同教室の事務局長を務める萱野志朗さんが1988年5月に「地域の活動を伝えたい」と、編集責任者となって隔月で発行を始めた。題字は教室と同名で、創刊号は5ページだったが、その後は10ページ程度となり、予算の都合で2009年の89号を最後に休刊となった。
 毎回受講生が過去の体験などを語るインタビューが好評。アイヌ語上達のためのメモに加え、二風谷ダム裁判やアイヌ文化振興法への思いから、中学生によるカナダ研修旅行の体験記まで、当時の様子を伝える貴重な資料ともなっている。
 教室の創設者、故萱野茂さんも「アイヌ文化と私」と題する随筆を連載。最後の掲載となった82号では「あとから来たものでも数さえ多ければそれでよしとする民主主義というものは、少数先住者にとっては数の暴力にしか見えない」とつづっている。
 今回はアイヌ文化振興・研究推進機構の助成を受けて電子データ化し、DVDを200枚作製。2月末に完成し、道アイヌ協会や博物館などに配布を始めた。萱野志朗さんは「紙なら900ページほどあり、調べるのも大変。各地の図書館で読んでもらうことができるようになったので、二風谷やアイヌ民族への理解がさらに深まれば」と話した。(敦沢政俊)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/area/doo/1-0260982.html


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外国人観光客に好評 民族衣装の特別展-白老アイヌ民博

2016-04-21 | アイヌ民族関連
苫小牧民報  (2016年 4/18)

企画展の会場で記念写真を撮る外国人観光客
 白老町のアイヌ民族博物館で15日から、アイヌ民族の晴れ着を集めた特別展「フッチ・メノコたちの手わざ」が始まった。大型連休企画の第一弾。同館で所蔵しているアイヌの伝統衣服とその復刻版など65着を5月10日まで3回に分けて週替わりで展示する。外国人観光客から高い関心を集めるなど初日から好評で、担当する学芸員の竹内隼人さん(23)は「5月5日には折り紙で伝統衣服を作成する関連企画もあるのでぜひ参加を」と呼び掛けている。
 博物館内の特別展示室には、アイヌ民族の代表的な衣装である木綿の布地服に切り伏せ文様を施した「チカラカラペ」をはじめ、木の皮で作られた糸で縫いこんだ樹皮衣「アットゥシ」、切り伏せや刺しゅうをふんだんに使った彩り鮮やかな「ルウンペ」、木綿衣に白い切り伏せ文様を施した「カパラミプ」など26作品を展示。このうち5組は同館所蔵の衣装と複製品を並べており、文化を現代に継承している様子も紹介されている。
 民族衣装はそれぞれ特徴が異なり、赤や白、紺など豊かな色彩で文様が施されている。企画展初日は多くの外国人観光客が初めて触れるアイヌ民族の衣装に興味津々。各作品の前で記念写真を撮る人も多くアイヌ文化へ関心を寄せていた。
 竹内さんによると、複製品制作に当たっては町内のアイヌ刺しゅうに携わる女性10人が4カ月がかりで20着を縫い上げたといい、「布の素材なども調べたと記録にあり、その完成度の高さも見どころです」と話す。
 5月5日には午前11時から子ども向け企画「折り紙でルウンペをつくろう」(先着10人)を開催する予定。連休期間中もさまざまな体験メニューなどを用意しており、地元を含め多くの来場を呼び掛けている。
http://www.tomamin.co.jp/20160437563

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地球温暖化で地球の軸がぶれ始めた

2016-04-21 | 先住民族関連
JBpress 2016.4.18(月)
著名な科学誌が論文を発表、氷床の大量溶解が原因

エクアドル・ガラパゴス諸島沖を泳ぐアオウミガメ〔AFPBB News〕
 日本の主要メディアが取り上げないのが疑問に思えるほど重要な記事が今月8日、米科学誌に発表された。科学にご興味のない方もぜひご一読いただければと思う。
 論文を端的に述べると「地球温暖化によって地球の軸がぶれ始めている」という内容である。地球の軸とは北極と南極を結ぶ地軸のことだ。
 ご存じのように地球は完璧な球体ではなく、北極の自転極と南極の自転極を結んだ軸を中心に自転している、いわばコマのようなものである。
 地軸は公転面に対して23.4度という角度で傾いている。その傾きがあることで、地球が太陽を1年で1周する間に日本などは四季が巡ってくる。傾きがないと1年中同じ季節ということになる。
2000年頃から変化強まる
 8日に発表された論文は、『サイエンス・アドバンシーズ』という科学誌に掲載された。著名な科学誌『サイエンス』のオンライン版と言える出版物で、研究者の評価は高い。
 実はこれまでも、自転極が長い年月をかけて移動していることは知られていた。1年にわずかであるが移動していた。ところが2000年頃から、急に移動のペースが速まっている。しかも向きも変化している。
 論文の著者の1人で、米カリフォルニア州の航空宇宙局(NASA)ジェット推進研究所のスレンドラ・アディカリ氏は米通信社の取材に対し、「近年の自転極の動きは20世紀に見られたものとは違い、たいへんドラマチックです」と答えている。
 何がドラマチックなのか。
 北の自転極(以下便宜的に北極点)はこれまで、西方向に動いていた。西方向というのは、地球儀を真上からみた時にカナダ方向を指す。しかし2000年頃から移動の方向が、経度にして約75度東になり、英国へ向かっているというのだ。
 移動距離にすれば1年で7インチ(約17.5センチ)に過ぎないが、地球科学的には「たいへん重要な情報」(アディカリ氏)であるという。
 論文の最大のポイントは、北極点の移動が地球温暖化に影響を受けているという点だ。温暖化の原因は様々だが、NASAによると2015年は過去136年間の観測史上、地球上の平均気温が最も高かった。
 気温の上昇に伴い、グリーンランドの氷河や西南極の氷床が大量に溶けて質量の再分配が起きているというのだ。つまり、大量の固体が液体になったことで地球上に大きなうねりが生じ、それが地軸を動かすほどの力になっている。
 ちなみに、同論文ではグリーンランドの氷河は毎年275兆キロが、西南極からは毎年124兆キロが溶けているという。
 実は2009年、米テキサス大学のジャンリ・チェン教授の研究チームが英科学誌『ネイチャー・ジオサイエンス』で、南極の氷の融解が海面上昇につながる恐れがあると警告していた。
溶けた水が移動して地軸が変化
 それまで、南極の氷床は地球温暖化の影響をそれほど受けないと言われていたが、実は融解は着実に進んでいることが判明した。氷が水になることで地表上に動きが起こると、地軸は質量を失った場所へと動いていく。
 論文のデータ収集に使われたのは、地球観測衛星グレース。地球の重力を測定することで海洋や極地での大規模な変化を探知できる。
 論文ではさらに、氷の融解以外の地球温暖化の影響も記述されている。特にユーラシア大陸で大きな湖の水位が低下したり地下水の枯渇が起きている。こうした現象も地軸のブレを起こさせる要因になっている。
 アディカリ氏と共著者のエリック・アイビンス氏の計測によると、グリーンランドの氷河の融解だけでは地軸の移動は発生しなかったという。西南極での氷床が溶け出したこと、さらにユーラシア大陸の水源の枯渇が地軸移動の複合的な理由だとしている。
 一部研究者から大陸での水源の枯渇は、地軸移動の原因としては軽微ではないかとの疑問が寄せられた。しかしアディカリ氏は次のように説明している。
 「ユーラシア大陸での水量の変化がないと、地軸の方向の変化の説明がつかないのです。地軸移動が起こる確固とした証拠を初めて示させたと思っています」
 特に2003年から2015年までの氷と水の質量分配の影響が大きいという。
 地球温暖化と地軸の移動との関連は今回初めて科学誌で発表されたが、地球上にはすでに気づいていた人たちがいた。先住民族イヌイットたちである。
 科学的な論文紹介の後に、イヌイットの経験的な見方を紹介することは不釣り合いかもしれないが、1つの見方として記したい。
 2010年、カナダのドキュメンタリー番組でイヌイットたちが「地球の軸がぶれている」と発言し、部族長がNASAに書簡を送付していた。また番組でインタビューを受けたイヌイットたち全員が、太陽と星の位置が変化しており、地軸がぶれているのではないかと発言している。
 同番組に出演したイヌイットのサミュエリ・アンマックさんは、幼少時から毎日父親に天空を確認するように教えられてきたという。
心配し過ぎる必要はないが・・・
 「1年を通して太陽の軌跡や星の位置を見ています。見ていると言うより、太陽や星はイヌイットの生活の一部なのです。ですから変化が起きればすぐに分かります」
 「いま太陽は本来沈む場所からずれています。星の位置も本来あるべき所にないのです。これは地球の軸がぶれているとしか説明がつきません。どうしてそうなったのかは分かりません。ただ空が変わってしまいました」
 別のイヌイットは「すべてが東に流れている」という興味深い発言もしている。
 イヌイットたちは自然現象の冷徹な観察者である。もちろん地軸変化の理由を分析する研究者ではないので、温暖化が原因であるとの結論には至っていない。それでも5年以上前から、地軸の変化に経験論的に気づいていたと言えるかもしれない。
 しかし前出のチェン教授は今回の論文結果が出ても、「心配することはありません。地球温暖化の興味深い一面が現れただけです」と心配しすぎる必要はないと述べる。
 確かに地軸移動の方向が変わったことで近い将来、人類に多大な影響が出ることはなさそうだ。それよりも地球温暖化によって様々な悪影響が表出している点を憂慮すべきだろう。
 チェン教授でさえ、2009年の論文内で「南極の氷床の融解によって、今後世界の海面上昇に大きな影響を与えることになるだろう」と記している。
 西南極の氷がすべて溶けることはないだろうが、もし融解すると世界中の海面を約5メートルも上昇させるという。そうなると地軸移動どころの話ではない。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/46610

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アイヌ政策提言ヘ団体発足


2016-04-21 | アイヌ民族関連
北海道新聞2016/04/10
来年国際シンポ代替案をまとめ
アイヌ民族と学識者らが協力して政策提言をしようと設立された市民会議(写真)
国内外の学識者やアイヌ民族らが9日、目指すべきアイヌ政策を提言していくための市民会議を札幌市内で設立した。現在の政府施策は先進各国の先住民族政策と比べて立ち遅れているとの認識が参加者から示され、年数回、検討会議を開き、来年は国際シンポジウムも主催して代替案をまとめていく方針を決めた。
第1回会議は北大で行われ、約40人が出席。道東や樺太アイヌ協会からの参加
もあった。団体名を「アイヌ政策検討市民会議」(世
話人・丸山博室蘭工大名誉
教授ら)とし、歴史、文化、社会、政治、法律の各観点から現在の政策に欠落していたり、不十分だったりする部分を洗い出すことにし
た。
シンポジウム後の報告書
は英訳もして国連の人権関連機関に提出する。
アイヌ民族からは「生活の糧を得られる政策を考えていかなくてはならない」「生活が安定して初めて、次のことを考えられる」などと福祉、経済対策を望む
声が相次いだ。北大大学院
法学研究科の吉田邦彦教授
は「貧困対策には、過去の
土地収奪や人権じゅうりん
への償いという根拠がある
ことを示していく必要がある。そうすることで、国全体の問題として予算化を求
めることもできる」と述べた。
ほかに取り上げるべき課題として、全国の大学が研究目的で集めたアイヌ民族の遺骨返還問題や学校教科書のアイヌ民族についての記述、共有財産問題などが
挙がった。

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家の中に坂や川? ユプノ族の言語世界を解明

2016-04-18 | アイヌ民族関連
ナショナル ジオグラフィック日本版-2016.04.18
パプアニューギニアの先住民は架空の「小さな世界地図」で方向を表現する

山の中腹に点在する伝統的な家。パプアニューギニアのユプノ渓谷で撮影。(Photograph by Rafael Núñez)
 シベックさんの家は斜面に建っていて、扉は坂の上に面している。つまり扉の外は上り坂だ。ところが、扉から反対を向いて家の奥に進むとき、彼は「上り坂」を歩いている。家の床は水平であるにもかかわらずである。なぜなら、シベックさんたちの言語では、屋内には屋外と無関係な架空の坂が存在するためだ。
 これは、ユプノ族の言語に見られる顕著な特徴の一つだ。パプアニューギニアのフィニステラ高原に暮らす約8000人がこの言語を話す。世界を見渡すと、左・右などの体を中心とした対比、東・西などの基本的な対比が多くの言語で使われているが、ユプノ語では現地の地形を基準に空間的な関係が表現される。(参考記事:「各地で火山噴火:パプアニューギニア」)
 環境を基準にした方位の表現は決して珍しくない。北極圏やアマゾン川流域、ヒマラヤ山脈の現地語にも見られ、さまざまな文化で上流・下流、陸側・海側のような対比が用いられている。
 しかし、研究者によると、ユプノ語ではこうした対比が非常に広範囲に応用されているという。ユプノ族は村の坂で方位を表現するだけでなく、平らな屋内空間にも、坂がある「小さな世界」をつくり出してしまうのだ。(参考記事:「インド山岳地帯で未知の言語を確認」)
 米カリフォルニア大学のラファエル・ヌニェス氏は「家に入ると、実際の地形図は消え去り、新しい地形図を基準に話が進みます」と説明する。ヌニェス氏らの研究にはナショナル ジオグラフィック協会も資金を提供している。「彼らは“谷の上側”、“谷の下側”、“上り坂”、“下り坂”などと言います。完全に水平な家の中にいて、ある体系にもとづいて表現しているのです」
扉の中には「上り坂」
 ユプノ族のグア村にある伝統的な家には扉が1つしかなく、中央にいろりがある。森林と草原から成る谷に家が立ち並び、坂の上側に面する家もあれば、下側に面する家もある。道路が整備されていないため、食べ物や水、日用品は坂の小道を使って運ぶ。つまり、日常的に坂を上り下りしているということだ。
 ヌニェス氏のチームは2009年、ユプノ族が上りと下りで時間を表現することについて研究していた。ユプノ語では「上り坂」は未来、「下り坂」は過去を表す。チームの一員であるシカゴ大学のケンジー・クーパーライダー氏は、最初は屋内と屋外で違いがあるとは思っていなかったため、被験者がどこにいるかを気にしていなかった。ところが間もなく、興味深い変則性があることに気づき始めた。屋外の地形と全く異なる方向を指し、「上り坂」のジェスチャーをするといったことが続いたのだ。
 そこで、チームはまず、坂の上側に面する家と下側に面する家を使い、空間言語の比較を行った。すると、ほぼすべての被験者が家の向きに関係なく、入口の扉から始まる「上り坂」を家の中に描き出していることがわかった。
家の中央に川が流れる
 2013年、チームは再びグア村を訪れ、屋内に描き出した地形図が自然に使われるものかどうか、つまり、無意識に小さな世界をつくり出しているかどうかを調べた。この実験では、成人16人が2人組になって、ある作業を行った。2人は、同じ組み合わせの複数のフィギュアを渡され、お互いが見えないように仕切られる。うち1人のフィギュアは、あるパターンで並べられている。彼はそのパターンを仕切りの向こうのパートナーに説明し、パートナーにも同じようにフィギュアを並べてもらうという課題が出された。
「おんどりを立たせて。頭は君が座っている方向。トウモロコシは寝かせて。扉の方向に」と1人目が呼びかける。
 実験の結果、上り坂と下り坂の対比は、屋内、屋外にかかわらず、高い頻度で自然に使われることがわかった。しかも、屋内で使用された対比の91%は、頭の中に描かれる小さな世界と一致していた。3月に発表された研究論文によれば、すでに確認されていた入口の扉からの「上り坂」に加え、いろりから壁への「上り坂」という第2の軸も存在するという。
 これらの軸は屋外の地形と一致しない場合もあるが、ユプノ族の人々は構わず使用する。グア村はなだらかな斜面の谷に位置し、1本の川が流れている。人々はいろりの上にこの川を描き出し、扉に向かって「谷の下側」に流れる風景を想像しているのではないかと、研究チームは考えている。川の両岸には垂直方向の急斜面があり、これらがいろりから壁への「上り坂」になったのだろう。
 これまでにも複数の人類学者が、大きな世界の地図を小さな世界に投影する行為が起こり得ることを示唆している。しかし、ユプノ族は日常的に小さな世界の地図で空間を表現している。このような事実が示されたのは今回が初めてだ。しかも、子供が参加した3度目の実験で、このような表現が若いころから行われていることも証明された。
 今回の研究を率いたヌニェス氏は、空間的な対比を表す言葉がしばしば用いられる血縁関係、感情、数字などの複雑な概念について、ユプノ語の成熟度や柔軟性を知りたいと考えている。例えば、英語の場合、「上の世代(the generation above)」「気分が下がっている(feeling down)」などの表現がある。
 長期的には、ユプノ族をはじめとする先住民の言葉の素晴らしさを明らかにすることで、現代社会との結び付きがどんどん強まっている先住民の暮らしを助けたいというのが、ヌニェス氏の願いだ。 (参考記事:「先住民10人の「声」」)
文=Karen Emslie/訳=米井香織
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/041500140/

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イルカのように泳ぎ「海の遊牧民」となっている子どもたちの実態に迫る

2016-04-17 | 先住民族関連
GIGAZINE-2016年04月17日 07時00分00秒
正式な国籍を持たず、独特の言語を話し、インド洋上で暮らすタイの先住民族がモーケン族です。「海の遊牧民」と呼ばれるモーケン族の子どもたちは魚やナマコを捕るため、1日の大半を海の中で過ごしますが、あるスウェーデンの学者がモーケン族の子どもの目の仕組みがイルカやアザラシに似ていることを発見し、大きな話題となりました。「潮が引くと、子どもたちは泳ぎ出します。しかし、その様子は私がこれまで見たことがないものでした。海底深くへと潜っていく彼らの目は大きく開かれ、まるで小さなイルカのようでした」ということで、イギリスのニュースメディア・BBCがモーケン族の子どもたちの秘密に迫っています。
BBC - Future - The ‘sea-nomad’ children who see like dolphins
http://www.bbc.com/future/story/20160229-the-sea-nomad-children-who-see-like-dolphins
インド洋のアンダマン諸島などで、「カバン」と呼ばれる家船で暮らしているのがモーケン族。モーケン族は正式な国籍を持たず、ゆえに医療や教育などの公的サービスを受けることができませんが、伝統的な慣習を守り、現在でも狩りや漁をして暮らしています。
近年の調査で明らかになったのは、モーケン族の子どもたちは、大陸で暮らす子どもたちと目の仕組みが違うということ。通常、人間は陸地での生活に最適化されているので、空気中で目を開けた時にクリアな映像を見ることがきますが、水中では角膜の屈折率が失われてしまうため、ぼんやりした映像しか見ることができません。
しかし、モーケン族の子どもは暗い海の中でも驚くほど瞳孔のサイズを小さくすることが可能で、水中でも1.0の視力を保つことができます。これは、カメラの絞りを小さくすることで焦点距離を深くし、ピントを合いやすくするのと同じ原理です。
モーケンの子どもたちが泳ぐ様子や、どのように海の世界を見ているのかは以下のムービーから確認可能です。
How Moken children see with amazing clarity underwater - Inside the Human Body - BBC One - YouTube
モーケン族の子どもたちが持つ視力の秘密は、1999年、スウェーデン・ルンド大学の視覚生理学者アンナ・ギズレン氏が明らかにしました。ギスレン氏は実際にモーケン族が暮らす島を訪れ、彼らと暮らしを共にしました。ギスレン氏は「潮が満ちてくると、モーケン族の子どもたちは海に飛び込み、海深くまで潜ります。そして、釣りのためのハマグリや貝殻、ナマコなどを捕ってくるのですが、その時、彼らの目はしっかり見開かれ、何の問題も起こっていないように見えました」と語っています。「その様子は私が今までに見たことがないものでした。しっかりと目を開いたまま海底へ潜っていく彼らは、まるで小さなイルカのようでした」
ギスレン氏はモーケン族の子どもたちにいくつかのテストを実施。テストの内容は、子どもたちに水の中に顔をつけてもらい、水中で線が書かれたカードを見せ、顔を上げて線の向きを答えてもらうというものでした。徐々に線を細くすることで難易度を上げていった結果、モーケン族の子どもたちはヨーロッパで暮らす子どもたちの2倍もよいテスト結果を記録したそうです。
はじめ、「子どもたちの目の構造は、根本的に自分たちとは異なるのではないか?」と考えたギスレン氏ですが、陸上でのモーケン族の子どもたちの視力は同年齢のヨーロッパの子どもたちとほぼ同じだったため、この仮説は理屈があいませんでした。そうなると、残された可能性は、モーケン族の子どもたちは水晶体の形を変えることができるか、瞳孔を小さくするのができるのかのいずれかです。
ギスレン氏は、モーケン族の子どもが、これまで人間に可能と思われていた大きさよりもさらに小さく瞳孔を収縮させることが可能なのだと結論づけています。ただし、瞳孔の収縮だけでは彼らの水中における視力を説明できないので、瞳孔の調整力に加えて水晶体の機能も進化しているとの見方です。瞳孔の収縮させ、水晶体の形を変化させることで水中でものを鮮明に見ることができるという仕組みは、イルカやアザラシが物を見る仕組みと似ているそうです。
一方で、ギスレン氏がモーケン族の大人に対しても子どもと同様の実験を行ったところ、大人には水中での特異な視力はないと判明。これは、大人の水晶体は子どものものほど柔軟でないことが理由だと見られています。水中での驚異的な視力を持たない大人のモーケン族は、それ故にハンティングや釣りによって獲物を仕留めています。
大人になると能力が失われてしまうことから、ギスレン氏はモーケン族の並外れた視力は遺伝的なものではなく、子ども故の能力と訓練の2つから培われたものだと推測し、同年齢のヨーロッパの子どもたちにも水中でものを見る訓練をしてもらいました。水中で線の書かれたカードを見て方向を答える、という訓練を1カ月・11セッションにわたって繰り返してもらったところ、ヨーロッパの子どもたちでもモーケン族の子どもと同程度の能力が身についたそうです。ただし、ヨーロッパの子どもたちはみんな海水にやられて目が赤くなってしまったとのことで、モーケン族の子どもたちは全く目を赤くせずに30回以上も潜水を繰り返すため、この点は異なります。
近年になってモーケン族が注目された理由の1つは特異な視力にありますが、スマトラ沖地震の際に津波を察知し、集落の老若男女1200人が高台に逃げていたため、死亡したのは体が不自由で逃げ遅れた男性1人だったと報道されたのも理由の1つです。しかし、この時、海辺の居住地の多くが破壊され、食糧や建築材料の供給源である干潟や森がガレキに覆われてしまうなど大きな被害を受けました。タイ政府はモーケン族に援助を申し出ており、タイ本土に移住させ国立公園での仕事を提供していますが、ギスレン氏は「彼らを助け、現代文化の中で安全を提供しようとすると、彼ら本来の文化を失わせてしまう」として、援助の難しさを語っています。
http://gigazine.net/news/20160417-sea-nomad-children/

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白老観光協会「積極的にPRを」 2カ国語表記2種類のパンフ作成

2016-04-17 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2016年 4/16)
 白老観光協会(高橋二郎会長)はこのほど、外国人観光客に対応した新しい観光案内パンフレットを作成した。「誘客版」と「着地版」の2種類があり、いずれも日本語と英語の2カ国語で表記している。国際共通語である英語を活用して町内の魅力を発信し、外国人観光客を中心とした入り込み拡大につなげるのが狙い。事務局は「道の駅などにも置かせてもらい、積極的に白老町の観光PRを進めたい」と話している。
 同協会が作成した誘客版パンフレットはA4判フルカラーで4ページ。見開きページではポロトコタンや仙台藩白老元陣屋資料館、虎杖浜温泉など主要な観光スポットを紹介。裏表紙に外国人向けに白老町の位置を記した地図などを掲載している。
 着地版パンフレットもA4判フルカラーで、登別温泉地区を含めた町内全体の地図を盛り込むため観音開きタイプの8ページ仕立てにした。観光スポットや体験施設、飲食店などの場所が地図上で分かるようになっており、JR白老駅と虎杖浜駅の周辺を拡大したマップや胆振管内全体を紹介する広域地図も盛り込んでいる。
 また、目的地へ効率的にアクセスできるようQRコードを初めて採用するなど工夫も凝らした。いずれも町の白老おもてなし環境整備事業を活用し、それぞれ5万8400枚を作成した。
 同協会によると、JR白老駅前に設置している事務所兼観光案内所の利用者数は2011年以降、年間3000人超の右肩上がりで推移。外国人観光客も年々増加し、15年は500人に上っている。
 担当者は「約2割が米国人でJRやレンタカーを利用するケースが多い」と、札幌からの交通アクセスの良さを強調。案内所を利用しないケースを含めると「少なくとも1000人以上の外国人が来ているはず」といい、来町時の対応強化とニーズの掘り起こしなどを狙いに初めて2種類のパンフレットを作成したという。
 各パンフレットは観光協会や町役場、しらおい創造空間「蔵」、仙台藩白老元陣屋資料館をはじめ、札幌市や登別市の観光案内所などに配布済み。今後も着実な事業展開を進め、国立アイヌ文化博物館(仮称)を含めた民族共生の象徴空間の20年開設を見据えた対応を図る考えだ。
http://www.tomamin.co.jp/20160437503

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【謎解き歴史紀行】関ヶ原の合戦に敗れた石田三成、その末裔の知られざる足跡を辿る

2016-04-17 | アイヌ民族関連
サライ.jp 4月16日(土)21時0分配信
慶応4年(明治元年)8月、榎本武揚(えのもと・たけあき)ら旧幕府海軍は品川沖を出帆して、北を目指した。
旧幕府海軍は10月に蝦夷地(北海道)に到着し、箱館(函館)を守備していた弘前・松前藩兵等の明治政府軍との戦闘を開始した。旧幕府軍は、政府軍を各所で退け、箱館府知事・清水谷公考(しみずだに・きんなる)は、青森へ逃亡した。旧幕府軍は無人の五稜郭を占拠し、さらに、松前城を落として松前一帯を占拠、松前藩主・松前徳広も津軽領へと逃亡した。
翌、明治2年4月、明治政府軍は、蝦夷地を旧幕府軍から奪還すべく、雪の消えるのを待って続々と津軽海峡を渡った。その中に、「軍事総轄」として、弘前藩兵を率いる杉山上総(すぎやま・かずさ/成知、龍江とも)の姿があった。
「出デハ軍務ヲ司リ、入テハ政務ヲ参画シ、内外ノ功績顕著ナル」と、評された上総は、弘前藩12代藩主・津軽承昭(つがる・つぐあきら)をよく補佐し、特に弘前藩の軍務のトップとして、函館戦争をリードした人物だった。
杉山家は、石田三成の次男・源吾重成を家祖とし、代々、弘前藩の重臣として重きをなした家だった。上総も、藩の重臣として、未曽有の動乱に対処していたのである。
幕末の杉山家当主・上総よりも200年前、同様に軍勢を率いて津軽海峡を渡った杉山家の人物がいた。石田三成の孫である杉山八兵衛(吉成)である。
八兵衛は、津軽家に出仕後、累進して、1300石という大身の禄を食み、「番方(藩の軍事組織)」の中核を担う重臣となった。その実力は幕府も認めており、その子「勘左衛門」は、「証人(幕府が大名やその重臣からとった人質)」として江戸にとどめ置かれるほどだった。
その八兵衛の、もっとも著名な功績が、4代藩主・津軽信政の時代の寛文9年(1669)に、弘前藩兵を率いて津軽海峡を渡り、寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの乱)鎮圧に貢献したというものだった。
■蝦夷地に対する最前線基地
「北狄(ほくてき)の押(おさえ)」という言葉がある。弘前藩が、幕藩体制化における自己の立ち位置を明確化し、藩政時代を通じて自己認識の要とした言葉である。「北狄」はいうまでもなく、中華思想における東夷・西戎・南蛮・北狄のうち、中華の北方の民族を指す言葉である。弘前藩は津軽海峡に面するという地理的環境から、蝦夷地に対する本州側の窓口であることを自任していた。いわば、蝦夷地に有事があった際の最前線基地として自らを位置づけ、その事実を藩内外にアピールするための文言だったのである。
弘前藩は、寛文蝦夷蜂起の際に、当事者である松前藩を除いて唯一出兵した実績を持ち、そのことが「北狄の押」という自己認識を深める契機となったと考えられている。
津軽信政の後を継いだ、5代藩主・津軽信寿(つがる・のぶひさ)の代に編纂された、弘前藩の官撰史書『津軽一統志』では、編纂直前の信政の時代については、寛文蝦夷蜂起に関する詳細な記述にほぼ限定される。また、同時期に行なわれた、幕府への家格上昇運動(十万石への高増を要望した運動)において、「北狄の押」という言葉が使われるようになる。
弘前藩にとって寛文蝦夷蜂起での出兵は、「北狄の押」という自己認識を生んだだけでなく、内では、その記録を信政の功績として位置付けることで家臣への求心力を高め、外では、幕府への奉公の実績として顕示するという役割を担ったと考えられる。こうして、「北狄の押」は、藩政期を通じた、弘前藩にとって、もっとも重要な自己認識となっていくのである。
■杉山八兵衛の出陣
日本の近世最大の民族衝突とされる寛文蝦夷蜂起は、寛文9年6月から7月にかけて、シブチャリ(北海道静内町)の首長・シャクシャインを中心として蜂起したアイヌたちが、蝦夷地に滞留していた和人たちを襲撃するかたちではじまった。
もともとは、アイヌどうしの漁労・狩猟のなわばりをめぐる争いに端を発したものだが、その争いを調整できなかった松前藩や、アイヌ社会の生業圏などを侵害し、秩序を混乱させた和人たちに対する不満がアイヌの中に渦巻いていた。シャクシャインたちは、そうした不満や社会不安に衝き動かされて、立ち上がったのだ。
アイヌ蜂起の報に接した幕府は、旗本として仕えていた松前泰広(松前藩主一族)を派遣して鎮圧の指揮を執らせる一方で、弘前藩等の北奥羽の諸藩に加勢準備を指示した。
弘前藩の動きは、他藩に比して素早く、そして積極的だった。7月の段階で、松前藩から通報を受け取った後、3隊・3000人の陣立てを準備した。その陣立ての一番隊侍大将が、杉山八兵衛であり、8月27日の幕府からの出兵命令を受けて、9月5日に700人余りを率いて弘前を出陣し、同8日には松前へ到着した。
八兵衛は、戦場の最前線であるクンヌイ(北海道長万部町)まで進軍することを望んだが、松前藩から拒否された。結局、実際に戦闘することはなかったが、八兵衛は戦況の変化を頻繁に国元へ報告し、その報告は幕府へももたらされた。さらに、弘前への帰陣後は、八兵衛自身が報告のために江戸へ向かった。
■祖父・三成の汚名をそそいだ江戸城登城
江戸城に登城した八兵衛は、老中等幕閣と面会し、蝦夷地での状況を報告し、さらには幕府から受けた扶持米の礼を藩主に成り代わって述べた。津軽信政の義兄で若年寄だった土井利房からは、松前への出兵と、そこからもたらされる八兵衛からの情報に対して、老中たちが「残すところのない働き」であると評価したことを告げられた。
その言葉を、八兵衛はどのような思いで聞いただろうか。脳裏には、祖父・石田三成や、遠く津軽まで落ち延び、侘しく没した父・源吾のことがよぎったであろうか。
関ヶ原合戦から69年。徳川将軍は4代家綱の時代となっていた。江戸城での幕閣との対座は、八兵衛にとって祖父・三成の汚名をそそぐ場となったのである。
そして、幕閣による杉山八兵衛に対する評価は、同時に、弘前藩に対する幕府の評価、そして弘前藩自身の自己評価となった。
当事者である松前藩以外に、幕府の命に沿って唯一軍事的行動をとることで、「北狄の押」を全うしたという弘前藩の自己認識は、前述のとおり、『津軽一統志』などによって、弘前藩の歴史に刻み込まれていった。そして、その実行者が杉山八兵衛だったのである。
■世代を超えた三成末裔の活躍
再び、明治2年に話を戻すと、杉山上総が統率した弘前藩兵は、木村杢之助(きむら・もくのすけ)隊の活躍で、函館戦争の分水嶺ともなった矢不来(やふらい)の戦いにおいて台場を攻略するなどの軍功をあげた。
その際、政府軍征討総督の太田黒亥和太(おおたぐろ・いわた/維信・熊本藩士)は、それまで満足な軍功をあげてこなかった弘前藩に対し、「貴藩は従来、北門鎖鑰(ほくもんさやく/北の守りの要)なのであるから、その任を果たす一大好機がきたではないか」と叱咤した。
その叱咤を受けた木村の奮闘で、弘前藩は矢不来の戦いを勝利に導く活躍をみせたのであるが、「弘前藩は『北門鎖鑰』なのだ」という認識が、遠く熊本藩においても存在したことに注目したい。
これは、杉山八兵衛の功績が、上総の時代まで脈々と、自他ともに認める弘前藩の実績として認識されていたということなのである。
弘前藩のよりどころとなった認識の形成に、杉山八兵衛は、実際の行動によって大きく寄与し、その認識は、200年後の上総の時代にも生きていた。八兵衛の功績を、上総は函館戦争において、さらに補強したのだといえよう。
他にも弘前藩を代表する人材を輩出した家は多いが、こと、津軽海峡を渡って実際に軍事を司り、自他ともに認める功績を挙げ得た家は杉山家だった。このことを顧みると、津軽家が危険を顧みず三成の遺児を匿(かくま)ったことは、後にいたって大きく報われたというべきではないだろうか。
維新後、上総は新たに設置された弘前県・青森県のために様々に貢献するが、新たな時代へかける意気込みは、豊臣政権の運営に尽力した先祖・石田三成をほうふつとさせるものであった。さらに、上総の子・熹之進(とうのしん)は、教育者として活躍し、藩校を前身とする東奥義塾の塾長などを務め、長く郷土の子弟教育に献身した。
このように、石田三成の主君や公へ尽くした一生は、姿やかたちを変えつつも、家風として代々杉山家に伝わったといえるのではないだろうか。
文/小石川透(弘前市文化財課)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160416-00010001-seraijp-life

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30日に道考古学会研究大会、登別では初開催

2016-04-17 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2016年4月15日(金)朝刊】
 北海道考古学会(大島直行会長)の2016年度研究大会が30日、登別市富士町の市民会館で開催される。10年ぶりの地方大会で、登別では初開催。新しい分野の「近現代考古学」をテーマにしているのが特徴で、地元からは登別市の菅野修広学芸員が発表する。多くの市民参加を呼び掛けている。
 大会は例年、北大を会場に開催されており、地方開催は森町以来。道民カレッジ連携事業、登別ときめき大学連携コース事業にも位置づけた。今回は「北海道における近現代考古学の今後」を主題に展開する。
 近現代考古学は明治期以降を対象にした新しい分野で「例えば明治時代に北海道の警備と開拓に当たった屯田兵の話があるが、文献だけでは知り得ない、生活レベルなどを残された痕跡から探るもの」(菅野さん)。
 田才雅彦さん(ヘリテージマネージャー)が「北海道における近世・近代の遺跡調査と今後の可能性」、石渡一人さん(別海町郷土資料館)が「交通の要所―野付通行屋跡遺跡と史跡旧奥行臼駅逓所」と題して講演する。
 菅野さんは3番手で登壇し「ゴミ穴から見える近代アイヌの物に対する認識変化―伊達市有珠善光寺2遺跡から」について発表。同所では幕末―明治の貝塚が見つかっているが「送りの場であった貝塚からゴミ穴に変化した時代や理由」についてアプローチする。
 続いて野村祐一さん(函館市教委)が「五稜郭―幕末遺構の発掘調査と史跡整備」、黒尾和久さん(国立ハンセン病資料館)が「近現代考古学の可能性―国立ハンセン病療養所における考古学的調査から」について語る。討論「近現代遺跡をフィールドに何をすべきか」で締めくくる。
 時間は午後1時~同6時。公開研究大会のため、誰でも参加可能。入場無料。配布資料はないが、会場で予稿集(千円)を販売する。希望者は直接会場へ。菅野さんは「地元で第一線の研究成果が聞けるチャンス」と話している。
 問い合わせは学会事務局(電話0143・88局1129番)へ。
(鞠子理人)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2016/04/15/20160415m_05.html

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白老・アイヌ民族博物館の昨年度入場者4年連続増

2016-04-17 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2016年4月15日(金)朝刊】
 白老町若草町のアイヌ民族博物館の2015年度(平成27年度)の入場者は19万4947人で14年度に比べ3・2%増加した。増加は4年連続。外国人の入場者が5・3%増え全体数を押し上げたが、目標の20万人には届かなかった。
 年間入場者は10年度20万2803人、11年度14万4683人、12年度15万5991人、13年度18万5006人、14年度18万8891人。2000年度以降をみると、30万人台から20万人台へと漸減傾向が続き、東日本大震災後の11年度に急激に落ち込み、その後底を打ったように4年連続の増加となった。かつては年間80万人以上来場したことがある。
 国内外の内訳は、国内が12万2162人(14年度比2・0%増)、海外が7万2785人(同5・3%増)。日本を除く国別では韓国が2万5449人(同38・1%増)、タイが1万8223人(同28・9%減)、シンガポール7380人(同7・2%増)、中国6306人(同8・9%増)、マレーシア4831人(同25・1%増)など。入場者全体に占める外国人比率は14年度比1・3ポイント増の37・3%だった。
 月別では5、6、7、9、10月が2万人台、その中で6月の2万6495人が最も多かった。8、11、12月は1万人台だった。
 村木美幸専務理事は「震災直後に激減しましたが、その後は着実に増えています。16年度は入場者22万人を目標にしています。展覧会や大型連休、夏休みの企画など年間スケジュールを決め、ホームページなどを通して近隣や道外の人たちが来やすいよう工夫したい」と話している。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2016/04/15/20160415m_08.html

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水の汚染が原因で恐怖の皮膚病が流行? 政府は否定・隠蔽で、カナダ先住民がブチギレ!

2016-04-17 | 先住民族関連
BIGLOBEニュース-4月13日(水)13時0分tocana
 カナダ・オンタリオにある先住民の町では、謎の皮膚病が子どもたちの間に蔓延していると、3月23日の「DailyMail」が報じている——。
■皮膚病の流行から1カ月後にようやく政府が動き出す
 16人の子どもが治療のために避難し、政府は医者を戸別訪問させて患者の発見に努めていると発表した。しかし北オンタリオ先住民グループの「Nishnawbe Aski Nation」代表アルビン・フィドラーは、この病気が蔓延し出してから、1カ月もたってやっと政府が動き出したことに不満を示す。
 フィドラーは政府が現在行っている援助に感謝を示しつつも、今まで政府は先住民を無視していたという。彼は、「緊急事態が宣言されて1カ月もたつのに、我々はいまだに衛生大臣との会合の日時を決めている始末だ。その間に事態はどんどん悪化している」と憤る。また、皮膚病に罹った子どもの写真がインターネットで広まってから、政府が急に動き出したことも指摘している。
 この皮膚病の原因は今のところ水の汚染、もしくは家のカビのせいではないかと言われているが、カナダの保健大臣は飲料水は安全だとしてこの説を否定している。しかし地域住民は入浴や洗濯に水道水を使用することを恐れており、フィドラーは政府以外の第三者の独立した水質分析結果を要求している。またNDP(新民主党)の先住民族問題評論家であるチャーリー・アンガスは、先住民族の環境には多くの問題が蓄積しており、この皮膚病は氷山の一角だと語る。
 昨年、発足したジャスティン・トルドー政権は先住民族保護を行政の基礎理念とした。トルドー首相は84億ドル(約7200億円)をファーストネイションズ(イヌイット、メティ以外のカナダ先住民)の人々の教育、及び水や地域医療サービス向上のために使うことを約束している。
■政治問題に発展するも皮膚病を早く治すことが先決
 この皮膚病は2005年にも居住地で蔓延したことがあり、「伝染性膿痂疹(とびひ)」ではないかと指摘する声もある。「とびひ」は珍しくない皮膚病だが、これだけ悪化し蔓延した背景には、先住民族の居住地の医療サービスの数不足、居住地家に大人数が詰め込まれている住環境、石鹸などの衛生日用品の価格が非常に高いことなどが影響していると考えられる。
 カナダには、54万人もの「ファーストネイションズ」が住んでいる。彼らの多くはカナダ政府より与えられた2200カ所の保留地に住むが、60年代までは電気も水道もなく下水道施設も整備されていないひどい環境であった。現在はかなり改善されたとはいえ、いまだ彼らの住環境は「平均的カナダ人」に比べるとひどく劣っているのが現状だ。
 今回の問題は子どもの皮膚病にとどまらず、「先住民族vsカナダ政府」の形をとる政治的な問題となりつつある。しかし最も気の毒なのは皮膚病にかかり、隔離された子どもたちである。政治的な戦いよりも、まずこの皮膚病を早く治すことが先決ではないだろうか。(文=三橋ココ)
http://news.biglobe.ne.jp/trend/0413/toc_160413_2543648383.html


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北海道大の墓地発掘、札幌地裁で和解成立し――アイヌ遺骨85年ぶりに返還

2016-04-15 | アイヌ民族関連
週刊金曜日編集部 2016年04月14日 14:51

北大の「アイヌ納骨堂」にはまだ大量のアイヌ人骨が残る。(2015年8月7日、撮影/平田剛士)
1930~70年代、北海道大学医学部の歴代教授らが研究名目で各地のアイヌ墓地を発掘するなどして1000人以上の遺骨を収集し、大半が留め置かれている問題で、返還を求めて同大学を訴えていた地元出身者らと大学の間の和解が3月25日、札幌地裁(本田晃裁判長)で成立した。
和解の条件に従い、大学は、構内に保管中の大量の人骨のうち、1931年から35年ごろにかけて当時の医学部解剖学第1・第2講座の山崎春雄・児玉作左衛門教授らが浦河町杵臼コタン(集落)の墓地から掘り出してきた12人分を、この夏にも地元に返還する。原告側は計900万円の賠償金請求を取り下げた。
同日記者会見した原告のエカシ(長老)小川隆吉さん(80歳)は「裁判長に感謝したい」と述べた。また、児玉教授に墓地を発掘されるなどして地元から持ち去られた64人分の遺骨返還を求めて訴訟中の浦幌アイヌ協会(浦幌町、19人)の差間正樹会長(65歳)は「うれしい。浦幌への返還も実現させて地元で慰霊できるようになれば、私たちアイヌがひとつになるチャンス」と笑顔を見せた。
かつて教授たちは公然と墓を掘り、大量の人骨を持ち去った。大学は世紀を超えてこの問題を放置し続けた。原告のうち城野口ユリさん(1933年生まれ)は返還の報を聞かずに昨年、他界した。
こうした末の「和解」に複雑な思いもあるだろうに、なんと寛容なアイヌ原告たちの言葉だろう。でも私たち和人が胸をなで下ろすのはまだ早い。大学や日本政府はこれまで一度も被害者に謝罪すらしていない。それを和人社会も見過ごしてきた。
原告支援を続ける植木哲也・苫小牧駒澤大学教授(哲学、科学技術社会論)は「こんな事件がなぜ起きたのか、私たちはまず事実を知らなければ」と話す。「真の和解」はきっとその先にしかない。
(平田剛士・フリーランス記者、4月1日号)
http://blogos.com/article/171859/

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民博で特別展「夷酋列像」 アイヌの風俗、鮮やかに巧みに

2016-04-15 | アイヌ民族関連
産経ニュース-2016.4.14 13:00更新
 たまに、名前はかすかに記憶しているにもかかわらず、作品を知らず、実物を初めて見てうなってしまうような画家がいる。大阪府吹田市の国立民族学博物館で開催されている特別展「夷酋列像(いしゅうれつぞう)-蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界-」で、蠣崎波響(かきざき・はきょう)(1764~1826年)が描いた日本画を見たときが、そうだった。
 波響は森鴎外の『伊沢蘭軒(いざわらんけん)』のなかで記されていると知ってはいたが、『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』を読んであまりに退屈し、蘭軒まで及ぶことなく、ここまで縁のない人物だった。ところが、この展覧会で絵を知り、興味をそそられるようになった。
 松前藩の家老にして、一級の絵描き。もとは藩主の息子だった、といえば、どこか酒井抱一とイメージが重なる。
 その代表作が、函館市中央図書館に2点、そして、なぜかフランス・ブザンソン美術考古博物館に11枚が残る「夷酋列像」だ。
 描かれているのは寛政2(1790)年に藩主の命によって描かれた12人のアイヌの有力者である。彼らは前年、和人の横暴に蜂起した東蝦夷地のアイヌたちに対して、戦いをやめるように説得した人物たちだった。京都にもたらされて光格天皇の天覧におよぶほどの話題を集めたその絵は、ときの政治の中枢部にあった松平定信らも関心を示したとされる。
 そのおもしろさは当時のアイヌの風俗を鮮やかに、そして巧みに描きだしている点にある。木綿服姿もあれば、清との交易で得た中国服(蝦夷錦)姿もある。弓ややりなど武器を持つ者や、犬や熊をつれ歩く者、獲物の鹿を背負う者もいる。立ち姿、座り姿などポーズも多様で、見る者をあきさせることがない。
 波響は、それを丹念に描いた。着物の柄ひとつ、男たちのヒゲや髪の毛、体毛までゆるがせにせず描き込む。着物のひだの影までも丁寧に表現することで、蝦夷錦の鮮やかな色彩が浮かび上がる。宋紫石(そう・しせき)に学び、円山応挙らと交友した画家の力量は、この絵だけでなく「遊鯉西王母図」などの美人画からもうかがえる。
 右代啓視(うしろ・ひろし)・北海道博物館歴史研究グループ学芸主幹は「豪華な衣装で飾っているのは、松前藩の広報戦略ではないか。フランスに渡った点も謎につつまれている」と話す。後世、多くの画家たちに模写されたあと、絵は忽然(こつぜん)と消え、1984年にフランスで“発見”されるまで、その存在は忘れ去られた。里帰りしたその作品は、アイヌの装飾品や民具などと一緒に19日まで並んでいる。(正木利和)
http://www.sankei.com/life/news/160414/lif1604140014-n1.html

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