昨日(20日)の朝、ブログの過去記事のランキングを見ていたら珍しくもおよそ3年前の記事が上位に位置していた。タイトルと内容が記憶の中でサッパリ一致しなかったので、再読してみると我ながらなかなかの仕上がりだった(笑)。
そこで一過性ではもったいないとばかり、以下のとおり再度アップさせてもらうことにした。
「神秘に満ちた数、素数。何というその美しさ。世紀をまたぐ最後の超難問”リーマン予想”の謎に迫る天才数学者たちの挑戦、人間味あふれる姿」と、背表紙に書いてあったのが「素数の音楽」(2005.8.30、マーカス・デュ・ソートイ著)。
「素数と音楽」に、どういう関係があるのかと興味を引かれて読み始めたところ、数学についてはまったくの素人なのに、実に分かりやすく書かれていて、非常に面白い。まだ読み終えてなく2/3ほどの進行形だが、どうやら両者は「美」という共通項で深く結ばれていることが分かってきた。
ところで、188頁に次のような個所があった。
20世紀前半に名を馳せた著名な数学者「リトルウッド」(イギリス)は、たいへんな音楽好きでも知られたが、「バッハ、ベ-トーヴェン、モーツァルトの音楽が大好きで、それ以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎると考えていた。」
ウ~ン、成る程。これはクラシック音楽愛好家にとっては大なり小なり思い当たる人もきっとあるに違いない。自分などはもっとラディカルに「モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎる。」と、つくづく思う今日この頃。
このところ3週間ほど前に購入した「モーツァルト全集」(CD55枚組)に首ったけである。朝から晩までモーツァルトばかり聴いていると、あの「天真爛漫」「天馬空を駆ける」ような世界にどっぷり浸かってしまい、楽聖ベートーヴェンの曲目でさえも、何だか作為的で不自然に思えてくるから不思議。それに何度聴いてもいっさい飽きないのがこれまた不思議。
最晩年の傑作、オペラ「魔笛」にトチ狂ってしまってからおよそ30年が経つが、近年ではモーツァルトは「モー卒業した」なんてつもりになっていたところ、次から次に新しい発見が続いてまだ山の頂にはほど遠い事が分かった。
改めて、そう認識させられたのが「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(K.165)。
15日(金)に、朝一の日課の運動ジムから戻ってこの曲を聴いていたら、思わず”目がしら”がジ~ンと熱くなってしまった。あまりにも美しすぎる!
至福の時とはこういうことを指すのだろうか。こんな音楽を聴かされると、「地位も名誉もお金も、何にも要らない」という心境になる。もちろん一時的だが(笑)。
ケッヘル番号が100番台だから、おそらく初期の作品だと思ってググってみると、何と17歳のときの作品だった。そんなに若いときにこんな美しい曲を作るんだからまったく脱帽である。ほかにもケッヘル100番台は「ディベルティメントK.136」という名曲もあるし、名画家や名作家にしても「若書きにとてもいいものがある」という言葉が見事に当てはまる。
これは宗教音楽だが、音楽家にとって神への思いは様々のようで、バッハの「マタイ受難曲」は何度チャレンジしてもどうしても馴染めないものの、それでも心からの神への信仰の厚さと敬虔な祈りが全編を通して伺われる。
が、しかしベートーヴェンでは「ミサ・ソレムニス」などを聴いていると、神への敬虔な祈りは聞こえてこない。どうも彼は神の言葉よりも自分の音楽の方がさらに高い啓示だと思っている節があると、感じる。これはあくまでも私見だが。
ここでモーツァルトの宗教音楽についても、一筆あってしかるべきだが、彼の音楽ばかりはとても当方の筆力の及ぶところではない。ただ、あまりにも人間離れしていて、音楽の神が彼を通じて書かせた音楽という感想だけ持っている。
最後に、この曲目の解説をネットから引用させてもらおう。
第1楽章 Allegro ヘ長調 4/4 ソナタ形式
第2楽章 Andante イ長調 3/4 ソナタ形式
第3楽章 Allegro ヘ長調 2/4 ロンド形式 (アレルヤ)
以上、誰しも思うことは同じですね~。