先日のブログで紹介した「オーディオ風土記」。全国津々浦々の30数人に亘るオーディオマニアの豪勢なシステムを豊富な写真付きで記載した書籍だったが、一番印象に残ったのが真空管アンプを使っている人はほとんどいないことだった。
大半がクラシック愛好家ではなくてジャズマニアだったのが影響しているのだろうが、とにかくことほど左様に真空管アンプを使っている人は極めて少数派なのだと今さらながら思い知らされた。
自分のオーディオ仲間たちはすべて真空管アンプ愛好派なので、たまたま類は類を呼んだのだろう。
なぜ真空管を使うのかと問われるとまず脳裏に浮かぶのは「中高音域の音感スピードの速さ、艶、ヌケの良さ」などだが、この辺は個人ごとの感覚的な世界なのでいい悪いは別として、そう思い込んでおればそれでよろし(笑)。
さて、ひとくちに真空管といっても製造年代は広範にわたるが、大別すると1970年を境としてそれ以前に製造された球を「古典管」、それ以降を「近代管」といってもそれほど叱られはしまいと思う。
1970年前後の本格的なトランジスター素子の登場で命脈が尽きたかと思われた真空管だが、オーディオの世界ではどっこい、しぶとく生き残って細々とでも生産が続けられているのはまことにご同慶の至りだが、このほど「古典管」と「近代管」に対する考え方の違いに愕然としてしまったことがある。経緯を説明しよう。
つい先日、我が家にお見えになった近所にお住いのYさんが持参されたのが「管球」王国」(ステレオサウンド社)の「75号」と「76号」の2冊。ご好意で当分の間お借りすることができた。
真空管に対する数少ない専門の情報誌なので1巻から47号まで毎回購入してきたが、現役を引退した途端に手元不如意になり打ち止め~(笑)。季刊誌として1年に4回刊行されているが何せ1冊が2800円もするのでいの一番の節約対象となった。
久しぶりに手にする「管球王国」にワクワクしながら読み進めるといきなり見出しの文句に驚いた。
「オリジナル真空管から規格を発展させた新型管。直熱管、ビーム管ともに、大パワーのゆとりは管球式アンプの可能性と新しい音の世界を広げる」
エ~ッ、こんなことを本気で言ってるの!またオーディオ評論家が提灯記事を書いている。くれぐれも騙されてはいけない(笑)。
これまで近代管を使っていい思いをしたことは一度もない。仲間たちの合言葉でも「1970年代以降の球には絶対に手を出すな」である。「古典管」と「近代管」では音質がまるっきり違うので「似て非なる物」として同列に扱うのは論外。パワーが欲しければTRアンプの方がマシ。
「古典管がベストですが手に入れるのが非常に難しいので当面は近代管で我慢しなさい。そのうち機会を見つけて是非古典管を使ってください」という考え方が「通奏低音」として流れているのなら、まずこういう言葉は出てこないと思う。まあ、こんなことを書いて煽らないと業界も尻すぼみだから仕方がないのかなあ・・・。
とにかく数少ない古典管を求めてなぜ、愛好家がこれほどの「血(お金)と汗と涙」を流しているのかとんと分かってもらえていないようだ。
まず、「血」。
熱心なマニアが限られた古典管を鵜の目鷹の目で探し回っているので必然的にお値段が高くなるのが第一のネック。総じて古典管は近代管に比べて値段が跳ね上がるが中にはペアで100万円近くすることもあるので、相当の流血を覚悟しなければならない(笑)。
次に「汗」。
稀少な古典管となると専門店でも在庫が無く、オークションにも滅多に出てこない。毎日オークションをこまめにチェックしながら年単位で探し回るのだからもはや執念以外の何物でもない。たとえ見つけても、少しでもためらうと横取りされるのがオチなので最後まで冷や汗が混じること疑いなし(笑)。
最後に「涙」。
何せ60年以上も前に製造された球なので、せっかく購入したはいいもののトラブルは日常茶飯事。それに初期不良ならクレームが利くものの1か月ほどしてプツンと音が出なくなったりする事故は後を絶たない。こうなるともはや泣き寝入りしかなく涙も涸れ果ててしまう(笑)。
これほどまでにして手に入れたいと思わせるのが「古典管の魅力」だが、つい最近もオーディオ仲間と歓談するうちに「いい真空管ともなるともう持ち主が死なないと手に入らないよなあ。この中で誰が最初に死ぬんだろう。歳の順では・・・」なんて物騒な話が飛び交ったりする。
そういうわけで「先にくたばってたまるものか」と、「食べ過ぎない」「適度な運動」に精を出す毎日がずっと続いているがいったいいつまで生きていられることやら・・(笑)。