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安倍首相は昭和天皇実録の熟読を

2014年09月11日 | 政治

 靖国参拝を慎むこと

                   2014年9月11日

 

 昭和天皇の87年の生涯を記録した「昭和天皇実録」が公表されました。新聞、雑誌に載った要約や解説を読んで、安倍首相にこそ実録を熟読してもらいたいと思いました。熟読すれば、天皇の平和への願い、戦争指導者への怒りが心の奥底に伝わり、首相自身の靖国神社への参拝が天皇の祈りをいかにふみにじるものであるかが、分るはずです。

 

 実録には、定説をひっくり返す、驚くような新資料はなかったにせよ、国の歴史を後世に伝える最重要の記録と評価されています。要約を読んだだけでも、悲惨な戦争を防げなかったことに対する天皇の痛恨の思いがひしひしと感じとれます。

 

 特に太平洋戦争前、陸軍の暴走に悩まされ、天皇がそれをいさめ、阻止しようとしても、憲法で規定した最高指導者をもってしても、それができなかった状況が繰り返し繰り返し、実録に登場します。軍国主義の暴走とは、このことなのでしょう。同時に、中国などが「日本は軍国主義を復活させようとしている」との批判は、妄想か対日批判のための誇大宣伝であり、いくらなんでも、こんな軍国主義が復活するとは思えないことも分ります。

 

 戦争の深みにはまっていく過程で、たとえば張作霖爆殺事件(昭和3年)では、関東軍による謀略との報告を受け、陸軍出身の田中義一首相を叱責します。陸軍は抵抗し、事件をうやむやにしようとすると、「田中が弁明に及んだ時、その必要はなし」としりぞけ、結局、内閣をつぶしました。

 

 2・26事件(昭和11年)では、本庄侍従武官長を3日間で41回も呼びつけたとのことです。天皇のいらだちは頂点に達し、「投降、自決覚悟の青年将校らに勅使を」との陸軍の願い出に「不満を示し、御叱責」との場面は、生々しい歴史の状況描写です。

 

 開戦から敗戦(昭和16年ー20年)の期間では、天皇をないがしろにする陸軍の姿勢は露骨になりました。軍務局長が天皇との陪食を無断で欠席、さらに参謀総長が拝謁を願い出ておきながら、天皇を待たせたまま、現われなかったそうです。成算なき開戦、統制がきかなくなる軍部に天皇は心を切り刻まれる思いだったでしょう。

 

 そして戦後へ。天皇は昭和20年から50年まで、計8回、靖国神社を参拝しました。実録には昭和63年、富田宮内庁長官に「靖国神社におけるA級戦犯の合祀(昭和53年)、御参拝について述べられる」と記述されています。資料はあるはずなのに、述べられた肝心の内容は公表されませんでした。もっともその部分は2006年に見つかった富田メモが触れており、「天皇は合祀に不快感を示し、それ以降、参拝しなかった」旨の内容になっています。

 

 正確なところを、安倍首相なら宮内庁に資料を請求して、その気なら、知ることができるはずです。どうですか。

 

 歴史学者の磯田氏は実録の中に、興味深い記述があったといいます。A級戦犯容疑で裁判中だった松岡洋右が病死したことを伝えると「罪の有無はまだ決定せず、かつ死亡により免責となったため、祭祀料(葬儀の際の金員)の下賜はさしつかえない」とする一方で、「有罪が確定した者の死去に際しては、一切の恩義は、不詮議(議論すらしない)とする」との結論です。戦犯に対する天皇のすさまじい気持ちがよく現われています。

 

 特にこうした部分を安倍首相は熟読すべきでしょう。首相なら昭和史、天皇実録に関心がないわけはなく、安倍首相なら昭和天皇を敬愛していることでしょう。悲惨な戦争を防げなかったことへの痛恨の思い、無謀な戦争に走った軍部、陸軍への怒り、国民を惨憺たる苦しみの淵に追い込んでいった戦争の罪深さ、その戦争指導者を英霊として祀るということの理不尽さ、侵略したアジア近隣諸国へのお詫び。一連の流れの結末が戦犯合祀としたら、昭和史への反省がまったくないことになります。

 

 首相、閣僚の靖国参拝は外交問題になり、日中、日韓関係のトゲになっています。靖国参拝の本質は、こうした外交関係以前の次元の問題だと思います。すくなくとも、靖国参拝がいかに罪深い行為であるかを知るべきでしょう。



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