本音がぽろぽろ
2015年4月18日
昨年の衆院選に続き、4月の地方統一選で勝った安倍政権は、ますます自信を深めています。そのせいか強気の発言、不用意な発言もしばしば飛び出しています。言葉尻からは本音が結構、透けて見えてくるもので、そこから安倍政権の「本当のところ」が観察できます。
もっとも気になるのは、沖縄・辺野古の米軍基地の移設問題です。首相官邸で安倍首相が翁長県知事と会談、理解を求めた際、「くれぐれも丁寧な説明をさせていただきながら、理解を得るよう努力をしていきたい」と、発言しました。これまでの経緯と照らし合わせてみると、「丁寧な説明」は果たして本心なのだろうかと疑ってしまいます。
米国の懸念であわてる
昨年12月に県知事に初当選し、上京しては首相らとの面会を何度か申し入れてきたと、報道されています。首相が翁長知事の当選そのものを歓迎していなかったためか、会談はこれまで1度も実現せず、「首相官邸は冷たすぎる。これでは双方の距離が開くばかり」との批判が与党周辺から聞かれておりました。さすがに米政府が深刻な懸念を伝えてきたためでしょうか、首相訪米を直前にして、知事就任後初の会談があわて設定されたとみていいのでしょうね。
「丁寧な説明」とは言葉の上だけの話で、県民感情を汲み、「丁寧な対応」をしてきたとは思えません。前哨戦として菅官房長官が沖縄で翁長知事と初会談したときも「工事を粛々として進めている」と、述べ、さらに首相も「粛々と」という表現を後追いしました。まったく無神経な言葉遣いで、「沖縄の民意とは無関係に予定通りに計画を進める」と受け取られ、強い反発を受け、「今後は使わない」という結末になりました。強硬路線でいけば、道は開けるという、いつもの手法がちらつきましたね。選択肢は他にないにせよ、長い悲惨な歴史から形成されてきた県民感情は複雑です。
「我が軍」発言では早期撤退
3月の国会答弁では、自衛隊を「我が軍」と口走り、野党の反発で「今後、そういう言葉は使わない」と身を引きました。民主党政権の時、当時の防衛相が「軍隊という位置づけでいい」との答弁をしています。国際的にもこの言葉遣いで問題がないのに、タカ派の安倍首相が使うと別のイメージを持たれてしまうことを警戒したのでしょう。それなら始めからそうしておくべきでした。
財政再建問題では、首相の理解不足と思われる発言がありました。日経新聞の解説記事によると、2月の経済財政諮問会議でのやり取り(オフレコ扱い)で、黒田日銀総裁が日本国債の格付け(信用度)引き下げの影響に言及しました。意外なところに深刻な波及効果をもたらしているというのです。「欧州の銀行で、日本国債を保有する比率を引き下げるところが出ている」、「欧米では、銀行の国債保有そのもののリスク(国債価格の下落による自己資本の毀損)に備え、資本を積むべきだとする動きがある」などと発言したのです。巨額の国債を発行しても、日銀が支えていれば問題ないとする楽観論に対して「事態はそんなに甘くない」と、警報を鳴らしたのです。
これに対し首相は「格付け会社に(日本は大丈夫だと)しっかりと、働きかけることが重要ではないか」と指示し、黒田総裁が「総理がおっしゃる通り」と述べました。財政再建や国債管理はそもそも財務相の守備範囲の問題だし、「しっかりと説明」したところで、格付け会社が「はいそうですね」と、引き下がった例は聞きませんね。この「しっかり説明」発言は、首相の理解の程度をよく表わし、今後が心配ですね。
「いまだ木鶏たりえず」とは
予算委員会で首相自身のヤジ(日教組はどうするのだ、という勘違い発言)で審議が紛糾したときのことです。首相は「いまだ木鶏(もくけい)たりえず」と陳謝しました。木彫りの木鶏のように動じず、泰然自若とする域には達していないという意味で、双葉山の連勝記録が止まった時の発言で有名です。安倍首相の実績のレベルを考えれば、自分からこの言葉を遣うのは不遜で、「自信過剰からか、勘違いの発言」と受け取った人はおおいでしょうね。
やはり国会答弁で「わたしの考えを述べるのは言論の自由だ」と、発言したことも反響を呼びました。「わたしも自由に発言したい」というのと「言論の自由だ」というのとでは、意味がまったく違います。「言論の自由」は戦前の言論統制に対比され、「国家権力に対して国民が獲得した自由」ということでしょう。それを最高権力者がいいだすとは。これこそ歴史認識が問われます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます