裁判システムのあり方を問う
2015年4月15日
関西電力の高浜原発(3,4号機)の再稼動をめぐり、福井地裁の裁判長が運転を禁じる仮処分の決定を下しました。安全性のどこが問題なのか以前に考えておかなければならない大きな問題があります。そのため高裁、最高裁の段階では恐らく結論がひっくり返るでしょう。
福井地裁の樋口裁判長(62)は地方まわりが多く、これまでも極端な判決をだすので注目されおり、4月1日付けで名古屋家裁に異動になりました。継続案件ということだったのでしょうか、今回の訴訟を担当していました。第二回審尋の日は、東日本大震災の発生日の3月11日に指定し、さらに「機は熟した」と発言して、審尋を終結させたと報道されています。かなり変わった人ですね。普通なら妙な憶測をされないように気を配るのに、逆のことをした人のようですね。
規制委員会の決定を否定
原発は高度に専門的知見を必要とする分野です。裁判官といえども、急に勉強して合理的な判断を導きだせるとは思えません。国は原子力規制委員会を設け、原発事故の後は厳しい新規制基準にして審査しています。その規制委員会は高浜原発の再稼動(安全強化と安全審査のため停止中)について安全審査をし、合格の決定を下しました。
原発の安全問題に取り組む国の機構としては、ここが最終責任を負うことになっています。規制委員会の合格決定に対し、この裁判官は「新基準そのものが緩やか過ぎる。適合しても安全性は確保されない」としたのです。委員会の決定をひっくり返したのです。
たった一人で重大決定
専門家が集まり、高度の技術、知識レベルを集約した新基準そのものを否定するのですから、大した度胸だ、といったらいいのでしょうか。また専門家集団の規制委員会の存在そのものも実質的に否定するのですから、根性が座っています。たった一人で原子力安全行政に立ち向かう合う姿には驚かされます。そんなことができるのだろうか、思ってしまいます。
原発問題は、安全性の議論ひとつとっても多岐にわたるし、日本のエネルギーの安定供給、経済性(料金水準)、国際競争力、国際的な地政学との関係(中東情勢と原油輸入の関係など)、環境対策など総合的な判断を必要とする分野です。本来は地方裁判所の1裁判官の手にあまる問題です。司法のレベルにそれが求められたら、本来なら専門的知識を持った複数の人材を集め、結論を下すべきなのに、司法の世界では、それができないのです。
憲法76条は、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行う」としています。上司の命令、指示を聞くことなく、ひとりひとりが独立してやりなさい、と規定しています。最高裁の大法廷ともなれば、複数の裁判官の合議制となります。問題は、地方裁判所のように規模が小さく、1人で結論を下す場合です。民間企業でも、政府でも、検察・警察関係でも、重要案件ほど1人で取り組むということはありません。地裁レベルほど、妙な判決がでるものですね。
最高裁判決と矛盾
国の原子力行政や安全規制委員会もミスがあるでしょうから、部外者は文句をいうなということではありません。実際に、国や電力会社に任せっぱなしだったため、東電の大事故が起きました。問題提起は司法からも必要です。その場合、原発の安全審査に関する最高裁判決(1992年)で、「高度で最新の科学的、技術的な判断が必要であり、行政の合理的な判断に委ねられている」としていることをどう考えるかです。裁判所のレベルでは扱いにくい高度の科学的、技術的だから、最終的には行政(この場合は原子力規制委員会、安全規制庁)に任せるという判断です。
原発反対が基本の朝日新聞は社説で、「政府や電力会社への重い警告だ」と、やはり決定を評価しています。その朝日新聞も関連記事で、決定文に引用された大学教授が「計算式は平均像をもとにしているが基準振動ではもっとも大きい条件をとっている。裁判長が事実誤認しているのでは」、との指摘を載せています。案の定ですね。
ともかく、今回の決定は「原発のリスクをゼロにしろ」という要求にひとしいという論評があります。どうもそのようで、要するに「再稼動はもちろん、原発そのものも認めないという考えなのでしょうか。そういう思想を持つのは自由にしても、そうなると司法というより、政治、行政が決めるべき次元の問題となります。
極端な判決をだすので注目されていました。4月には名古屋家裁に異動しましました。継続案件だったからなのでしょうか、今回の原発訴訟
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます