共 結 来 縁 ~ あるヴァイオリン&ヴィオラ講師の戯言 ~

山川異域、風月同天、寄諸仏子、共結来縁…山川の域異れど、風月は同天にあり、諸仏の縁に寄りたる者、来たれる縁を共に結ばむ

今日はヴェルディの歌劇《イル・トロヴァトーレ》初演の日〜パヴァロッティのハイトーン冴え渡るカバレッタ『見よ、恐ろしい炎を』

2025年01月19日 17時25分20秒 | 音楽
さすがに二日もゴロゴロしていたら、どうにか容体も安定してきました。病院の開いていない週末に具合を悪くすると、ろくなことがありません…。

さて、二日も投稿を休んだので、さすがに今日は書いてみようと思います。今日は歌劇《イル・トロヴァトーレ》が初演された日です。

歌劇《イル・トロヴァトーレ》は、



イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディ(1813〜1901)が作曲した全4幕からなるオペラです。1853年の今日ローマで初演され、ヴェルディ中期の傑作の一つとされています。

1839年に発表した《オベルト》以来、年間1作以上のペースで作曲を続けてきたヴェルディでしたが、1851年に《リゴレット》を初演、成功させた38歳のヴェルディの作曲の筆はそこからしばらく止まっていました。1851年6月の母の死、《椿姫》を初演したソプラノ歌手ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815〜1897)との同棲生活に対する世間の冷ややかな眼、そこからの逃避の意味もあって近郊での農園購入とその経営(ヴェルディは単なる不在地主ではなく農地管理の些事にまで干渉していたようです)など、作曲以外の雑事に忙殺されていたのも原因でした。

実際のヴェルディは作曲家としてどうにかこれからの暮らしには困らない収入も得て、この頃はどこの劇場の委嘱も受けず、自ら選んだ題材を好きなだけ時間をかけてオペラ化する、という大家ならではの作曲法が可能となっていました。そして、そうした自己の選択による作品が《イル・トロヴァトーレ》でした。

《イル・トロヴァトーレ》の原作『エル・トロバドール』はスペインの劇作家グティエレスによって書かれ、1836年にマドリードで初演された舞台劇でした。ただ、中世の騎士物語、男女の恋愛、ジプシー女の呪い、といった雑多なテーマを盛り込んだこの複雑な舞台劇をヴェルディがどうやって知ったのか、今日でもはっきりしていません。

スペイン語原典のイタリア語訳は当時まだされていなかったので、イタリア・オペラの重要な演奏拠点の一つであったマドリードのオペラ関係者がヴェルディに個人的にこの戯曲を送付し、イタリア語以外の言語に疎かったヴェルディに代わって語学の才のあったジュゼッピーナがイタリア語に仮訳したのではないかと想像されています。いずれにせよ、遅くとも1851年の春頃、ちょうど《リゴレット》初演の前後までにはヴェルディはそうしたイタリア語訳に目を通し、台本作家カンマラーノに台本化を開始してほしいと要請していたと思われています。

ナポリ在住の台本作家サルヴァトーレ・カンマラーノ(1801〜1852)は、ドニゼッティのための《ランメルモールのルチア》や《ロベルト・デヴリュー》などの台本で有名です。《イル・トロヴァトーレ》はどこの劇場の委嘱も受けずヴェルディが創作したもので、劇場の座付き作家を利用しなければならない…といった制約は元々なかったわけですが、この作品がカンマラーノとの共同作業となった理由も、またはっきりしていません。

カンマラーノは長年の劇場生活に培われた本能的とも言える劇的展開、ならびに詩文の美しさについて定評の高かった作家で、こういった複雑怪奇な戯曲のオペラ台本化には適任の人物だとヴェルディが考えた可能性が高いと思われています。ただし、構成面では、カンマラーノは保守的な「番号付き」オペラの伝統に強く影響されていたため、ヴェルディが前作《リゴレット》で採用した、切れ目のない重唱の持続で緊張感を維持するといった新手法は、《イル・トロヴァトーレ》ではいったん後退をみせています。

初演都市としては、初めカンマラーノと縁の深いナポリ・サン・カルロ劇場が考慮されていましたが、ヴェルディの要求する金額があまりに法外であるとして劇場側が降りてしまい、結局ローマのアポロ劇場での初演と決定しました。これは作曲どころか台本の完成以前の話です。

ところがカンマラーノは1852年7月に急死してしまい、第3幕の一部と第4幕の全てが未完のまま残されてしまったため、ヴェルディは友人の紹介により、やはりナポリ在住の若い詩人レオーネ・エマヌエーレ・バルダーレ(1820〜1874)と契約し、台本はカンマラーノの草稿に沿う形で同年秋に完成しました。ヴェルディは1852年10月のわずか1か月でそれに作曲したとの逸話がありますが、完成稿としてはともかく、メロディーのほとんどはカンマラーノとの交渉が開始された1851年から作り貯めていたと考えるのが自然だと思います。

初演は、ヴェルディのそれまでのどのオペラと比べても大成功といって良いもので、世界各都市での再演も早く、パリ(イタリア座でのイタリア語上演)は1854年、ロンドンとニューヨークが1855年に行われました。またフランス語化しグランド・オペラ様式化した『ル・トルヴェール』(Le Trouvère)は1856年にオペラ座で上演されました。

ヴェルディ自身はのちに

「西インド諸島でもアフリカの真ん中でも、私の『イル・トロヴァトーレ』を聴くことはできます」

と豪語しています。かなり大袈裟な表現だとは思いますが、それほどの手応えを感じていたことは伝わってきます。

さて、オペラ全編を載せるとさすがに長いので、今回はその中から第3幕のマンリーコのカバレッタ『見よ、恐ろしい炎を』をご紹介したいと思います。

様々な困難を乗り越えて、ようやく結婚式を挙げて幸せになろうとするマンリーコとレオノーラ。しかし、そこにマンリーコの母親であるアズチェーナが敵方のルーナ伯爵軍に捕らえられたとの報があり、母を救出すべく

「武器を取れ!」

と歌う勇猛果敢なカバレッタです

かくも勇ましく幕を閉じますが、続く第4幕では信じられないほど沈痛な場面が展開します。そして、最後は誰一人として幸せにならない壮絶な結末を迎えるのです。

このカバレッタで、テノールは楽譜に書かれていない高音ハイC(高いド)を挿入することが慣例になっています。通説では、これはロンドン初演時のテノール歌手のエンリコ・タンベルリック(1820〜1889)がヴェルディの許可を得て創始したとされていて、以来テノールのアリアとして最大の難曲の一つに数えられています。

逆にこのハイCを失敗することはテノールにとっての恥辱とも考えられ、一部の歌手は失敗を恐れて半音下げて歌っている(オーケストラのピッチを半音下げて演奏させる)ようです。ただし、指揮者のリッカルド・ムーティはスカラ座での上演に際して

「常に作曲者の書いたままを演奏すべし」

との原典主義に基づき、ハイCを入れないヴェルディの楽譜通りに演奏させて賛否両論を巻き起こしました。

そんなわけで、今日はヴェルディの歌劇《イル・トロヴァトーレ》から『見よ、恐ろしい炎を』をお聴きいただきたいと思います。三大テノールの一人ルチアーノ・パヴァロッティ(1935〜2007)による1988年のメトロポリタン歌劇場ライブで、これぞヴェルディ!という名旋律と、パヴァロッティの輝かしいハイトーンをご堪能ください。


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