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「父帰る」

 妻の元気さは相変わらずであるが、考えて見れば今年になって一度も遠征に出かけていない。せいぜい「有頂天ホテル」を観に行ったことと、娘とデパートに買い物に行ったぐらいしか覚えていない。2月末までは確定申告で、毎日忙しがっていたから仕方がなかったのかもしれないが、傍から見ているとおとなしく暮らしているように見えた。しかし、着々と準備は進めていたようで、4月になるとためていた力を一気に爆発させる予定になっているらしい。先日聞いたところによると、4月だけで、草剛の舞台を1回、藤原竜也の舞台を3回観るために東京に出向くそうだ。さらに、娘とペアーで申し込むと、草の舞台のチケットが当たるという抽選に申し込んであるから、うまく行ったら5回になるかもしれないと、あまりに能天気な見通しを立てていた。「それはさすがにやりすぎだろう」と、堪りかねた私が文句を言ってやったら、「だから、もし剛の舞台が当たったら、藤原の舞台は一回あきらめる」と、当然と思えることを偉そうに言う。名古屋で2回、大阪で1回のチケットは既に確保してあるそうだから、それくらい我慢してもどうってことないのに、さも道理が分かった振りをして物を言うからカチンと来る。でも、自分で組んだ予定にこれ以上私が口をはさむと逆ギレするのがオチだから、「仕方ないや」となすがままにしておくのに越したことはない。
 しかし、草の舞台のチケットは手に入れるのに相当苦労したようだ。何でも、世田谷のシアタートラムという小さな劇場で上演されるようで、元々観客数が少ない上になんと言っても草剛だ、プラチナチケットになるのも当然だろう。妻はSMAP仲間の人から運良く1枚回してもらえることになったが、それが分かったときは狂喜乱舞していた。それ程嬉しいものなのかなと不思議に思うが、感情の起伏の烈しい奴だから分からないでもない。それにしても、演目が菊池寛の「父帰る」と「屋上の狂人」とは妙に古典的なものだなと、前々から興味深く思っていた。菊池寛は有名な作家であるが、私は「恩讐の彼方に」しか読んだことがなかった。「父帰る」も「屋上の狂人」も読んだことはなかったので、書棚にある中央公論社の「日本の文学」を探してみた。すると運よくどちらも掲載されていたので、早速読んでみた。脚本として書かれた短いものなのですぐに読了できた(草の舞台では、それぞれ40分で演じる予定)。ストーリーを簡単に纏めると次のようだ。


『父帰る』
家族を顧みず、放蕩のあげくに女をつくって家出した父が、二十年ぶりに落ちぶれ果てた姿で我が家に戻ってくる。 母と次男と娘は温かく迎えたが、貧困と闘いつつ一家を支え、弟妹を中学まで出した長男・賢一郎は父を許さず、自分たちにとっては親どころか敵であると、積年の恨みを叩きつける。 長男の怒りの前に、父は悄然と去る。しかし、「賢一郎!」と哀願する母の叫びに、彼は弟を連れて、狂気のように父の跡を追うのであった。

『屋上の狂人』
瀬戸内海のある島の財産家の長男・義太郎は、毎日自分の家の高い屋根に上り、一日中、穏やかな海を凝視している。「金毘羅様の空の彼方に神殿があり、天人と天狗が舞い踊る様子が見える」と言っては、彼はいつも無邪気に喜んでいる。しかし、両親にとっては、世間体もあり、何とか癒そうと苦心するが効き目がない。そんなある日、義太郎の奇行は狐が憑いたせいだという巫女が現れ、両親は巫女の言う通りに、屋上の義太郎を松葉でいぶし始める。そこへ中学校から帰宅した弟の末次郎が憤慨して巫女を追い出し、両親に、兄は今のままが幸福なのだと説き、将来は自分が面倒を見ると誓い、屋根に上り、狂人の兄とともに、穏やかな瀬戸内の海を照らす夕日を眺めるのであった。

 私としては「屋上の狂人」で、草の演じる儀太郎を見てみたいとは思うが、妻はまだこの脚本を読んでいないので、どういう感想を持つのか分からない。しかし、今週の土・日に草が演じる「愛と死を見つめて」に関する彼のインタビュー記事が先日スポーツ紙に載っていた。それを見た妻が面白いことを言った。「剛はいつでも同じことしか言わないから読まなくていい。映画やドラマをやっても、覚えたせりふが身になって行かないんだよね、剛は・・・その点、藤原は違うんだな。舞台をやるたびにその中のセリフが確実に自分のものになっていってるのが分かる、若いのにすごいよ、あの子は」
 恐るべし、藤原竜也・・・て言うほどのことでもないかな。
 

   
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