毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「夢十夜」
「リンボウ先生が読む 漱石『夢十夜』」を読んだ、というよりも聞いた。この本は、リンボウ先生こと作家・書誌学者である林望が、夏目漱石の短編集「夢十夜」を朗読するCDがメインと考えていいのだろうが、「夢十夜」の原文、林望の解説、さらには音楽談義も載せられていて、幾重にも楽しめる内容になっている。私は、漱石の信奉者であり、漱石のどの作品も繰り返し読んでいるが、中でもこの「夢十夜」は初めて読んで以来、不思議な夢の物語としてかなり読み込んである。しかし、それを口に出して読んだことはなく、人が朗読するのを聞いたこともなかったので、書店でこの本を見つけたときにはすごく興味を引かれた。すぐに買って家で聞いたのだが、実によかった、感動した。
何がいいかと言って、林望の朗読が素晴らしい。今までNHKのラジオで、彼が料理について語っているのを何度か聞いたことがあり、声や話し振りが落ち着いて聞きやすく、話の内容も洗練されていて、さすがリンボウ先生と思ったものだ。今回、この本を読んでみてそれも当たり前だというのが分かった。彼は、小学校の時分から朗読が好きで、ずっと美しい文章を朗読するのを楽しみにしてきた。それが長じて朗読の精華ともいうべき観世流の能楽を学び、能楽公演の地謡方を勤めるまでになり、さらには、東京芸大の教官時代に声楽を学んで、朗読というものを「文章に内在する音楽の朗唱」と感じるようになった。そこから、「音楽的な美しさを持っていない文章は朗読には堪えず、朗読に堪えないものはまた文章としては美しくない」と考えるに至った、ということだ。私は、この文章を読まずにCDを聞いたものだから、彼の朗読のあまりの見事さに舌を巻いたのだが、後でこれを読んで「なるほど!」と納得できた。
さらにこの本は、ただ朗読するだけではなく、選りすぐりの音楽がBGMとして流れていることで、聞く者の興趣を盛り上げてくれる。例えば、第一夜の朗読にはホルストの「ムーア風組曲より『夜想曲』」とディーリアスの「2つの水彩画より『Lento, ma non troppo』という私など一度も耳にしたことがない曲がBGMとして流れている。それがまた朗読される物語の内容に実にマッチしているのが心憎い。世の碩学というものは、恐ろしいほどの知識を多方面に持っているものだと改めて驚かされる。
「夢十夜」は、多くが「こんな夢を見た」という書き出しで始まる話を十話集めたものだが、いずれも不思議な内容である。林望はそのことに関して、「常日頃、私たちは物事の認識ができているような気がしていますが、人間の心中にはどこかしら闇が存在するわけです。自分でも気付かない何か、思いがけない怪しい無意識や半覚醒のような部分・・・漱石はそれらをきっとこの『夢十夜』の中で描写しているのだと思います」と述べている。さらに、「読み手がいかにイマジネーションに遊べるか、すなわち、話としての筋やら主題なんてものを超越した前衛映画を観るような不思議な感覚で楽しんでおけば、それでよろしいのであろうと考えます」と言っている。その通りだと思う。私は十話の中で、「第一夜」が特に好きだが、この話も荒唐無稽などと考えず、フロイト的に解析したりもせず、変な邪推などしないで、あるがままの形で受け入れればいいと思う。そういう意味では耳で聞いた方が素直に頭の中に入って来るのかもしれない。
その「第一夜」をあえて要約してみると、
自分は瀕死の女の枕元に座っている。女は、『死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。さうして天から落ちて来る星の破片(かけ)を墓標(はかじるし)に置いて下さい。さうして墓の傍に待つてゐて下さい。又逢ひに来ますから』と言う。いつ逢いに来るかとたずねると『百年、私の墓の傍に座つて待つてゐて下さい。屹度(きつと)逢ひに来ますから』と言って死んでしまうから、言われたとおりにする。しかし、いくら待っても百年経たない。女に欺されたのではと思い出したら、石の下から青い茎が伸びてきて、白い百合の花弁が開いた。自分がその百合に接吻して、『百合から顔を離す拍子に思はず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いてゐた。「百年はもう来てゐたんだな」と此の時始めて気が付いた』
私の死んだ母も、残していったシンビジュームの花とともに毎年5月すぎになると、私たちに逢いに来る。
何がいいかと言って、林望の朗読が素晴らしい。今までNHKのラジオで、彼が料理について語っているのを何度か聞いたことがあり、声や話し振りが落ち着いて聞きやすく、話の内容も洗練されていて、さすがリンボウ先生と思ったものだ。今回、この本を読んでみてそれも当たり前だというのが分かった。彼は、小学校の時分から朗読が好きで、ずっと美しい文章を朗読するのを楽しみにしてきた。それが長じて朗読の精華ともいうべき観世流の能楽を学び、能楽公演の地謡方を勤めるまでになり、さらには、東京芸大の教官時代に声楽を学んで、朗読というものを「文章に内在する音楽の朗唱」と感じるようになった。そこから、「音楽的な美しさを持っていない文章は朗読には堪えず、朗読に堪えないものはまた文章としては美しくない」と考えるに至った、ということだ。私は、この文章を読まずにCDを聞いたものだから、彼の朗読のあまりの見事さに舌を巻いたのだが、後でこれを読んで「なるほど!」と納得できた。
さらにこの本は、ただ朗読するだけではなく、選りすぐりの音楽がBGMとして流れていることで、聞く者の興趣を盛り上げてくれる。例えば、第一夜の朗読にはホルストの「ムーア風組曲より『夜想曲』」とディーリアスの「2つの水彩画より『Lento, ma non troppo』という私など一度も耳にしたことがない曲がBGMとして流れている。それがまた朗読される物語の内容に実にマッチしているのが心憎い。世の碩学というものは、恐ろしいほどの知識を多方面に持っているものだと改めて驚かされる。
「夢十夜」は、多くが「こんな夢を見た」という書き出しで始まる話を十話集めたものだが、いずれも不思議な内容である。林望はそのことに関して、「常日頃、私たちは物事の認識ができているような気がしていますが、人間の心中にはどこかしら闇が存在するわけです。自分でも気付かない何か、思いがけない怪しい無意識や半覚醒のような部分・・・漱石はそれらをきっとこの『夢十夜』の中で描写しているのだと思います」と述べている。さらに、「読み手がいかにイマジネーションに遊べるか、すなわち、話としての筋やら主題なんてものを超越した前衛映画を観るような不思議な感覚で楽しんでおけば、それでよろしいのであろうと考えます」と言っている。その通りだと思う。私は十話の中で、「第一夜」が特に好きだが、この話も荒唐無稽などと考えず、フロイト的に解析したりもせず、変な邪推などしないで、あるがままの形で受け入れればいいと思う。そういう意味では耳で聞いた方が素直に頭の中に入って来るのかもしれない。
その「第一夜」をあえて要約してみると、
自分は瀕死の女の枕元に座っている。女は、『死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。さうして天から落ちて来る星の破片(かけ)を墓標(はかじるし)に置いて下さい。さうして墓の傍に待つてゐて下さい。又逢ひに来ますから』と言う。いつ逢いに来るかとたずねると『百年、私の墓の傍に座つて待つてゐて下さい。屹度(きつと)逢ひに来ますから』と言って死んでしまうから、言われたとおりにする。しかし、いくら待っても百年経たない。女に欺されたのではと思い出したら、石の下から青い茎が伸びてきて、白い百合の花弁が開いた。自分がその百合に接吻して、『百合から顔を離す拍子に思はず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いてゐた。「百年はもう来てゐたんだな」と此の時始めて気が付いた』
私の死んだ母も、残していったシンビジュームの花とともに毎年5月すぎになると、私たちに逢いに来る。
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