毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
「君といつまでも」
先週の土曜日、バスの運転をしながらラジオを聴いていたら、加山雄三の「君といつまでも」が流れてきた。岩谷時子作詞、弾厚作作曲のこの歌は、名曲だと思う。つい、一緒に口ずさんでしまった。
二人を夕闇が 包むこの窓辺に
明日も素晴らしい 幸せが来るだろう
君の瞳は星と輝き
恋するこの胸は 炎と燃えている
大空染めて行く 夕陽色あせても
二人の心は 変わらないいつまでも
いいよなあ、恋の絶頂期にある二人の心を歌った歌としては最高だ。二人の心がしっかりと通じ合っていると信じているからこそ歌える歌だ。
「幸せだな
僕は君といる時が
一番幸せなんだ
僕は死ぬまで
君を離さないぞ
いいだろう?」
「でもなあ、このセリフがあるんだよな、この歌には・・」私は思わず自分に突っ込みを入れてしまった。これが歌詞だったら、まだいいのかもしれない。しかし、セリフとなると聞いていて恥ずかしくて仕方がない。いくら加山雄三が指で鼻をこすりながら言っていても、聞いている方が恥ずかしくなってしまう。何も私が恥ずかしがる必要はないのだが、何故か恥ずかしいし、照れてしまう。どうしてなんだろう。
同じようなことが、私が高校生の頃「少年マガジン」に連載されていた、梶原一騎原作の「愛と誠」の中で、学校一秀才の岩清水弘がヒロイン早乙女愛に向かって叫ぶ有名なセリフ、
「早乙女愛よ、岩清水弘はきみのためなら死ねる!」
についても言える。この言葉自体は、岩清水クンの抑え切れない激情のほとばしりであると解釈すればいいのだろうが、何故か読むたび、聞くたびにこちらが恥ずかしくなってしまうセリフであった。いまの時代、こんなことを言おうもんなら、ストーカーと思われ、気持ち悪い男と罵られるのがオチである。
「羞恥心はどこへ消えた?」(菅原健介著、光文社新書)という本がある。人間がなぜ「恥らう」のか、羞恥心は何の役に立っているのかについて論証しているが、残念なことに、「君といつまでも」や、岩清水クンのセリフから私が感じるような恥ずかしさや照れについて説明してくれていない。仕方がないから、自分なりに菅原氏の考えをアレンジしてみた。
恋愛期間中に、心の中で「君を離さないぞ」とか「君のためなら死ねる」と思い込むことは程度の差こそあれ、誰にもあることではないだろうか。ただ、大多数はそんなことを口に出して言わないし、言わないからこそお互いの心を探りあい、恋愛の喜び・苦しみが味わえるのかもしれない。そうした秘めやかな心もようを、あまりにストレートに表現してしまう人がいると、私たちは「ちょっと待ってよ」と自己抑制をかけ、「あんなことはとても真似できない、恥ずかしい」と思うのではないだろうか。羞恥心が働き、恥をかかないよう、自己の行動を抑制するのである。
この考えがあながち間違っていないことを裏付けるような、加山雄三に関する1つの「事件」がある。2004年9月6日、対オリオールズ戦で、ヤンキースがサヨナラ勝ちを収め、グラウンドでチームメイトと喜び合った松井秀喜が一塁側ダッグアウトに下がろうとしたとき、すぐ上の席にいた加山雄三が松井を呼び止め、写真撮影をせがんだのだ。松井は断るわけにはいかずポーズをとっていたが、私はこの映像を一部始終見ていて、「加山雄三ってすごい人だな」と思った。さすが超有名人だけあって、試合終了直後の松井に平気で無理が言えるんだなと感心してしまった。「いいなあ」と思わず羨ましくなったが、同時に何だか恥ずかしい気分になったのも覚えている。自分だったら、そんな図々しいこと恥ずかしくてとてもできないと思ったのだが、それは「そんなことをしたら自分が恥をかくだけだよ、そんなことをしちゃいけないよ」、と羞恥心が自己抑制をかけたのかもしれない。
でもなあ、世間になんと思われようと、そんな松井とのツーショットの写真があったら自慢できるよな。いいなあ、加山雄三は・・
二人を夕闇が 包むこの窓辺に
明日も素晴らしい 幸せが来るだろう
君の瞳は星と輝き
恋するこの胸は 炎と燃えている
大空染めて行く 夕陽色あせても
二人の心は 変わらないいつまでも
いいよなあ、恋の絶頂期にある二人の心を歌った歌としては最高だ。二人の心がしっかりと通じ合っていると信じているからこそ歌える歌だ。
「幸せだな
僕は君といる時が
一番幸せなんだ
僕は死ぬまで
君を離さないぞ
いいだろう?」
「でもなあ、このセリフがあるんだよな、この歌には・・」私は思わず自分に突っ込みを入れてしまった。これが歌詞だったら、まだいいのかもしれない。しかし、セリフとなると聞いていて恥ずかしくて仕方がない。いくら加山雄三が指で鼻をこすりながら言っていても、聞いている方が恥ずかしくなってしまう。何も私が恥ずかしがる必要はないのだが、何故か恥ずかしいし、照れてしまう。どうしてなんだろう。
同じようなことが、私が高校生の頃「少年マガジン」に連載されていた、梶原一騎原作の「愛と誠」の中で、学校一秀才の岩清水弘がヒロイン早乙女愛に向かって叫ぶ有名なセリフ、
「早乙女愛よ、岩清水弘はきみのためなら死ねる!」
についても言える。この言葉自体は、岩清水クンの抑え切れない激情のほとばしりであると解釈すればいいのだろうが、何故か読むたび、聞くたびにこちらが恥ずかしくなってしまうセリフであった。いまの時代、こんなことを言おうもんなら、ストーカーと思われ、気持ち悪い男と罵られるのがオチである。
「羞恥心はどこへ消えた?」(菅原健介著、光文社新書)という本がある。人間がなぜ「恥らう」のか、羞恥心は何の役に立っているのかについて論証しているが、残念なことに、「君といつまでも」や、岩清水クンのセリフから私が感じるような恥ずかしさや照れについて説明してくれていない。仕方がないから、自分なりに菅原氏の考えをアレンジしてみた。
恋愛期間中に、心の中で「君を離さないぞ」とか「君のためなら死ねる」と思い込むことは程度の差こそあれ、誰にもあることではないだろうか。ただ、大多数はそんなことを口に出して言わないし、言わないからこそお互いの心を探りあい、恋愛の喜び・苦しみが味わえるのかもしれない。そうした秘めやかな心もようを、あまりにストレートに表現してしまう人がいると、私たちは「ちょっと待ってよ」と自己抑制をかけ、「あんなことはとても真似できない、恥ずかしい」と思うのではないだろうか。羞恥心が働き、恥をかかないよう、自己の行動を抑制するのである。
この考えがあながち間違っていないことを裏付けるような、加山雄三に関する1つの「事件」がある。2004年9月6日、対オリオールズ戦で、ヤンキースがサヨナラ勝ちを収め、グラウンドでチームメイトと喜び合った松井秀喜が一塁側ダッグアウトに下がろうとしたとき、すぐ上の席にいた加山雄三が松井を呼び止め、写真撮影をせがんだのだ。松井は断るわけにはいかずポーズをとっていたが、私はこの映像を一部始終見ていて、「加山雄三ってすごい人だな」と思った。さすが超有名人だけあって、試合終了直後の松井に平気で無理が言えるんだなと感心してしまった。「いいなあ」と思わず羨ましくなったが、同時に何だか恥ずかしい気分になったのも覚えている。自分だったら、そんな図々しいこと恥ずかしくてとてもできないと思ったのだが、それは「そんなことをしたら自分が恥をかくだけだよ、そんなことをしちゃいけないよ」、と羞恥心が自己抑制をかけたのかもしれない。
でもなあ、世間になんと思われようと、そんな松井とのツーショットの写真があったら自慢できるよな。いいなあ、加山雄三は・・
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