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万歩計

 私のPCが置いてある塾舎の2階の部屋は、今の時期めちゃくちゃ暑い。コピー機も置いてあるので、授業中も時々コピーをしに来るのだが、夏の熱気がそこに集中しているかと錯覚するほど暑くなる。元々コピーをとる作業が好きではない私は、夏の間は猛烈な暑さでいっそうコピーをとるのがいやでたまらなくなる。それでも短時間のことなので、何とか我慢して汗だくになりながらコピーを済ます。
 だが、一日の授業が終わって、PCに向かう時間になってもまだ熱がこもっていて、ブログの記事を書いたりしているとだんだん我慢ができなくなる。そこで、やむを得ずエアコンをつけることになる。何も深夜にエアコンなどかけなくても、と思うが、窓を開ければ虫が入ってきて大変なことになるから、エアコンのお世話になるしかない。しばらく経てば快適な涼しさになり、逆にこの部屋から出たくない気にもなってくる。かと言って、睡眠を十分とって疲れをとらなければ長い夏休みを乗り切ることは難しい。家に帰って風呂に入ってなるべく早く寝なくちゃいけない。やることを全部済ませてPCの電源を落とすまで、なんだかバタバタと慌しく、ついついエアコンを切り忘れてしまうことがよくある。翌朝塾舎に入って階段を上りかけるとひんやりした空気が降りてくる。その瞬間、「しまった!」とエアコンを切り忘れたのを悟るのだが、ものすごくもったいないことをしたような気がしてしばらくは気分が落ち込んでしまう。
 だが、至極当たり前のことだが、こうした機械というものは、人間が指示したとおりのことしかできない。クーラーの場合も、タイマーを使って人が指示しておけば時間が来れば止まるようにもできるが、人が誰もいないから冷房する必要はもうないなと自分で判断して電源を切るなどということまではしてくれない。(さらに科学が進めばそんなことも可能になるかもしれないが・・)。改めて指示をしない限り、一度与えられた指示通りに同じ動作を繰り返している。万一、今晩クーラーを切り忘れて、1年間この部屋に誰も入ってこなかったとしたら、夏が終わって秋・冬と寒さが募ってきても冷房は作動しているわけだし、春になって暖かくなってもその動きは変わらないはずだ。そう思うと、文明の利器として私たちの生活を大いに助けてくれている機械も、一旦人間が指示したことは、それがどんなに無駄なことであっても、次の指示があるまで延々と続けなければならない運命にあると言えよう。
 
 などと考えてみたのは、先日古い万歩計を見つけたからだ。古いと言っても、10年ほど前のもので、表示は液晶となっていて、動くたびに数字が上がっていく仕組みになっている。引き出しの奥にしまいこんであったのを見つけて、スイッチを押してみたが、表示が出てこない。振っても叩いても何も変わらない。もう寿命かなと思ってはみたが、なんとなく諦められずにドライバーで上ブタを外してみた。


小さなものであるが、整然と並べられた部品には機械の持つ美しさが感じられる。思わず見とれてしまうほどだが、左下にある丸いものは電池ではないか!液晶表示をするには何らかの動力が必要だと思っていたが、こんなに小さな電池が内蔵されていたとは思ってもみなかった。驚いた。
 ということは、この万歩計が作動しないのは電池が切れているということになる。スイッチが入ったままずっと捨てておかれたのだろう。いつ電池が切れたかは分からないが、切れるまでずっと数字を表示していたはずだ。その数はいくつだったろう、電池が切れた瞬間はどうやって数字が消えていったのだろう、パッと消えたのか、ゆっくり徐々に消えたのか・・。などと空想を楽しんでみるのだが、誰も見ることのない数字を10年近くも無意味に表示し続けていた万歩計に、機械の哀しさともいうべきものを感じてしまった。そんなものは私の勝手な感傷であって、万歩計の与り知らぬことであるのは十分承知しているが、それでもなんだか切ない気持ちになってしまった。
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