毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
百万本のバラ
NHK・BSは、ヤンキースの試合がないときでも、半ば癖になってチャンネルを合わせてしまうことが多い。はじめはぼんやり見ていても、興味深い番組が放送されていることも多く、しばらく見入ってしまうこともしばしばだ。「世界ふれあい街あるき」という番組もその1つだ。これは、世界中の色んな都市をカメラマンが歩きながら探訪していき、その映像にナレーター(役者から芸人まで各種人物が担当している)が、いかにも自分が歩いているような台詞をかぶせて、その街を紹介してくれる。今まで見た中では、青島やマドリードが特に印象深かったが、少し前に見たリガも興味深かった。ラトビアの都市として、ロシアと歴史的に深いかかわりを持ってきたことが街の各所に表れていて勉強になったが、加藤登紀子の歌として日本では有名な「百万本のバラ」が、ラトビアを発祥の地としていたことが紹介されたときには驚いた。私は、加藤登紀子のオリジナル曲だとばかり思っていたので、意表をつかれたような気がした。
番組の中では、ラトビアの文化大臣も務めた原曲の作曲家であるライモンズ・パウルス氏がインタビューを受けていた。母娘の悲しい人生を綴るオリジナルの歌詞には、他国に支配され続けてきたラトビアの苦難の歴史が暗示されてるとも言われているが、その原詞を訳したものを探してきた。
原題:「マーラ(生命と母性を象徴する女神)が与えた人生」
子どものころ泣かされると 母に寄り添ってなぐさめてもらった
そんな母は笑みを浮かべてささやいた
「マーラは娘に生を与えたけど 幸せをあげ忘れた」
時が経ってもう母はいない 今は一人で生きなくてはならない
母を思い出して寂しさに駆られると 同じことをつぶやく私がいる
「マーラは娘に生を与えたけど 幸せをあげ忘れた」
そんなことはすっかり忘れていたけど ある日突然驚いた
今度は私の娘が 笑みを浮かべて口ずさんでいる
「マーラは娘に生を与えたけど 幸せをあげ忘れた」
しかし、少し調べたら、加藤登紀子が訳したのはこの詞をもとにしたのではないらしい。この曲をもとにヴォズネンスキーがロシア語の詞を付け、1982年にロシアの歌手アーラ・プガチョワが歌って大ヒットした「百万本のバラ」の歌詞を日本語に訳したのだそうだ。そのロシア語の歌詞を忠実に訳すと次のようになるという。
「百万本のバラ」
一人の画家が住んでいた
彼は家とカンバスを持っていた
でも、彼は1人の女優に恋をした
彼女は花が好きだからと
彼は絵画も、屋根から丸ごと家を売って金をつくり
花の海で彩った
百万、百万、百万本の赤いバラ
窓から、窓から、窓からあなたは見る
誰の愛なの、誰の愛なの、誰の愛なの熱心な
あなたのために彼の人生は花に移った
これを加藤登紀子の訳詞と比べてみると面白い。
小さな家とキャンパス 他には何もない
貧しい絵かきが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました
百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして
もちろん、曲にのせた日本語としては加藤登紀子の詞が一番だろうが、ラトビア語の原詞は悲しい。他国に支配され続けたラトビアの歴史を暗示するものとして、この曲を聞いた多くのラトビア人の胸を打ったことだろう。加藤登紀子はこうした経緯を知った上で、日本語に訳して歌ったのだろうが、日本でそうした背景を知る者はごくわずかではないだろうか。それとも、この曲が流行した当時にはそうしたデテールまできちんと紹介されていたのだろうか。寡聞にして詳しくはないが、外国の楽曲を紹介する際の難しさを垣間見たようで興味深かった。
番組の中では、ラトビアの文化大臣も務めた原曲の作曲家であるライモンズ・パウルス氏がインタビューを受けていた。母娘の悲しい人生を綴るオリジナルの歌詞には、他国に支配され続けてきたラトビアの苦難の歴史が暗示されてるとも言われているが、その原詞を訳したものを探してきた。
原題:「マーラ(生命と母性を象徴する女神)が与えた人生」
子どものころ泣かされると 母に寄り添ってなぐさめてもらった
そんな母は笑みを浮かべてささやいた
「マーラは娘に生を与えたけど 幸せをあげ忘れた」
時が経ってもう母はいない 今は一人で生きなくてはならない
母を思い出して寂しさに駆られると 同じことをつぶやく私がいる
「マーラは娘に生を与えたけど 幸せをあげ忘れた」
そんなことはすっかり忘れていたけど ある日突然驚いた
今度は私の娘が 笑みを浮かべて口ずさんでいる
「マーラは娘に生を与えたけど 幸せをあげ忘れた」
しかし、少し調べたら、加藤登紀子が訳したのはこの詞をもとにしたのではないらしい。この曲をもとにヴォズネンスキーがロシア語の詞を付け、1982年にロシアの歌手アーラ・プガチョワが歌って大ヒットした「百万本のバラ」の歌詞を日本語に訳したのだそうだ。そのロシア語の歌詞を忠実に訳すと次のようになるという。
「百万本のバラ」
一人の画家が住んでいた
彼は家とカンバスを持っていた
でも、彼は1人の女優に恋をした
彼女は花が好きだからと
彼は絵画も、屋根から丸ごと家を売って金をつくり
花の海で彩った
百万、百万、百万本の赤いバラ
窓から、窓から、窓からあなたは見る
誰の愛なの、誰の愛なの、誰の愛なの熱心な
あなたのために彼の人生は花に移った
これを加藤登紀子の訳詞と比べてみると面白い。
小さな家とキャンパス 他には何もない
貧しい絵かきが 女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中の バラを買いました
百万本のバラの花を
あなたに あなたに あなたにあげる
窓から 窓から見える広場を
真っ赤なバラでうめつくして
もちろん、曲にのせた日本語としては加藤登紀子の詞が一番だろうが、ラトビア語の原詞は悲しい。他国に支配され続けたラトビアの歴史を暗示するものとして、この曲を聞いた多くのラトビア人の胸を打ったことだろう。加藤登紀子はこうした経緯を知った上で、日本語に訳して歌ったのだろうが、日本でそうした背景を知る者はごくわずかではないだろうか。それとも、この曲が流行した当時にはそうしたデテールまできちんと紹介されていたのだろうか。寡聞にして詳しくはないが、外国の楽曲を紹介する際の難しさを垣間見たようで興味深かった。
コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )