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サングラス

 
 これは私の愛用するサングラスだ。愛用といっても、休みのとき、しかもふっと思いついた時にしかかけないから、さほど使っているわけではない。3、4年前、急にサングラスが欲しくなって、レイバンのサングラスに度を入れてもらったのを買った。今では車中に置きっぱなしになっていることが多く、去年などは1度もかけなかった。今年は思い出して1度かけてみたのだが、どういうわけか、このサングラスをかけるといつも、色の着いた世界が現実の世界から遮断されたような不思議な感覚を味わう。耳に入ってくる周りの騒音も心なしか静まって、現実感が希薄になる。車の運転には集中できていいとも言えるが、どこか異空間に入り込んだような感覚に付きまとわれ、途中でいやになって外してしまうことが多い。怪しい感覚だ。
 私が眼鏡をかけ始めたのは大学生になってからだが、しばらくの間はレンズに薄い色を着けていた。「他人に目を見られたくないから」などとふざけたことを言いながら虚勢を張っていたにすぎないが、次第にそれも何だか嫌味に思えてきて、通常のレンズに変えてしまった。有名芸能人でもあるまいし、サングラスで顔を隠す必要などないからそれが当たり前の姿だが、それ以来サングラスの必要を感じずにすごしてきた。それが、ある日突然、衝動買いのように買ってしまったのだから、何か啓示があったのかもしれない。昔は眼鏡越しに色の着いた世界を眺めていても何も違和感を感じなかったのに、今ではどうしてこんな変な感覚に襲われるようになったのだろう、よく分からない。

 サングラスを、昔はよく「色眼鏡」と呼んだものだ。今ではそんな呼び方をする人はほとんどいないだろう。「色眼鏡」には、「色眼鏡でものを見る」といった使い方で、「先入観で物を見る、偏った観察をすることをいう」と辞書には記されているが、この言葉こそ今の私が最も注意しなければならないものだ。
 20年以上も塾をやっていると生徒と少し接すればだいたいの学力が分かってしまう。それがベテランの強みと言えば言えるし、逆に弱点だと言えなくもない。自分が積み上げてきた経験から自分なりのデータを作り上げ、その中から最も適切な指導法を選び出し、成果を上げようと毎日努力している。こういう子には、こういう指導をするのがいいと経験上知っているのは、生徒にも親にも安心感を与えられ、私の強みでもある。自分が長い時間をかけてコツコツと培ってきた実績に自信を持ってはいるが、しかし、それが時として過信になっている場合がないとは言えないだろう。この子ならこの程度できれば十分だ、と自身の経験から勝手に判断してしまい、もっと大きな可能性があるかもしれない生徒の伸びる芽を摘みとっているかもしれない。それこそベテランがはまりやすい陥穽であり、最も警戒しなければならないものだ。
 今までにも私が思いもしなかったほどの学力向上を果たした生徒が何人かいた。私の見込み以上の進歩をしてくれるのはうれしいことだが、それは私の眼力が誤っていたことの表れでもあり、その都度、十把一絡げの勝手な思い込みの危うさを肝に銘じてきた。こうしたことを何度か繰り返し、自分では生徒を極力色眼鏡で見ないように努力しているつもりであるが、ついつい先入観で判断してしまうことがまだまだあるように思う。もちろん、私の思いが図星であることのほうがずっと多いのは確かだが、たとえわずかな確率であっても私の予測を越える可能性はどんな子供にでもあるのだから、常に虚心胆懐を心掛けて生徒に接していかなければならないと、ことあるごとに己を戒めている。

 こうした思いが強くて、近頃はサングラスをかけるのが怖くなっているのかもしれない。

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