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 塾生を送り終え、市内の東部をバスで走っていたら、不思議な穴を見つけた。公民館の駐車場の奥がちょっとした崖になっていて、そのふもとに穴が開いている。


何だろう?車を降りて近づいてみた。


最初は防空壕かと思った。私の子供の頃は、道から少し離れた山の斜面に防空壕がいくつも掘ってあった。戦後20年近く経っても取り壊されずに残っていたのも不思議な気がするが、私の住む町が実際に空襲に遭ったという話は聞いたことがないので、たぶん一度も使われないまま放置されていたのだろう。
 しかし、この穴はどうも違う。小さすぎる、人一人も入れないだろう。奥をのぞいてみると穴の壁がレンガのようなもので固められていた。
 「そうか!窯だ!陶器を焼く窯だ!」
私の住む市は陶器の町として有名で、窯元(陶器を焼くための窯を持った陶器製造業者)がたくさんある。特に市の東部には昔ながらの茶碗や皿などを作っている、「窯焼き」(窯元の通称)が集まっている。それは町名にも表れていて、「窯町(かまちょう)」「窯元町(かまもとちょう)」「窯神町(かまがみちょう)」などと呼ばれる地域があり、窯が住民の生活と密着したものであったことが分かる。陶芸作家と呼ばれる人々も多いし、陶房やギャラリーを開設している作家もいる。私のように生まれてからずっと住んでいる者にとっては特に魅力のある町だとは思えないが、近年は観光客も多くなり、年に2度ほど東部地区で開かれる「窯めぐり」という窯元を歩いて回る催しも盛んになっている。
 などと書けば、華やいだ町のようにも思われるが、7月24日の記事にも書いたとおり、廃業する窯元が後を絶たないほど、不景気が長く続いている。私の親戚にも「窯焼き」があるが、家族だけで細々と続けて何とか糊口をしのいでいるような状態だ。
 そういう視点で見れば、写真に撮った窯も哀れを誘うが、もうちょっと明るい話をこの窯から想像することはできないだろうか。例えば・・、
 
 この窯が出来上がった頃は、火力はまだ薪であった。燃料設備の跡が何もないから多分そうだろう。それから窯の燃料が薪→石炭→重油→電気と次第に移り変わるにつれて工場も発展を遂げ、こんな旧式の小さな窯だけでは生産がおっつかなくなった。そこで時代に即した近代的な大きな窯が造られ、この窯はいつしか使われなくなったが、工場の礎を成した窯としてその後も残されてきた・・。
 
 などと考えてみれば、この打ち捨てられた窯も、陶器産業の発展期の象徴であったかのような気がしてくるから不思議だ。そう思って、周りを見回してみたが、大きくなったはずの窯元はどこにも見当たらない。ただ夏草に覆われた空き地が広がるだけだ。一度は大きくなった工場も、時代の波にもまれるうちに、いつしか立ち行かなくなってしまい、跡形も残すことなく滅びてしまったのかもしれない・・。今の私の町からはどうにも景気のいい話は思い浮かばない。情けないが、結局は暗い話になってしまう。
 
 時はちょうど夕暮れ、鳴き続けるセミの声の中、「斜陽」という言葉が私の頭をかすめた。
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