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城山三郎

 年度末の休み中は、新学期の準備をし終えた夕方以降は、ビール片手にずっとTVを見ていた。と言っても、面白い番組など何もやっていなくて、妻が録画しておいたTV番組をぼんやり見ていただけだが・・。
 稲垣吾郎が金田一耕介に扮した「悪魔の手毬歌」は、横溝正史の小説世界をきちんと理解していない脚本家が書いたとしか思えないほど、「血が引き起こす悲劇」がまったく感じられない、人間の内奥に潜むおどろおどろしさがまったく感じられない平板なドラマだった。一緒に見ていたのがスマヲタの妻であるため、吾郎ちゃんの悪口は言えず、ひたすら脚本家のせいにしていたが、映画好きの吾郎ちゃんがこのドラマを客観的に見たならどんな評価を下すのか、ちょっと知りたい気もした。
 少し前に放送された「落日燃ゆ」も見た。文官として唯一A級戦犯となり絞首刑に処せられた広田弘毅の半生を描いた、城山三郎の小説をTVドラマ化したものである。暴走する軍部が、中国大陸を侵略をし、太平洋戦争へ突入して行ったという歴史をなぞりながら、戦争を避けようとした広田の奮闘もむなしく日本が自滅への道を歩んでいった経緯を克明に描いていて、酔いが回って最初は夢うつつで見ていた私もこのドラマの迫力に引っ張られて、とうとう最後まで見てしまった。
 私は城山三郎という作家の小説を一冊も読んだことはない。実在の人物をモデルにしたノンフィクション風の小説は苦手だからかもしれないが、先日読んだ佐高信の評論集の中に、城山三郎に関する記述が幾つかあり、彼が城山三郎を敬愛していたのがよく分かった。

 『城山は、人を殺す組織である軍隊と違って、自衛隊の本義は「人を救うこと」にあり、イラク派遣はその誇るべき本質を失わせるとし、決断を下す前に、小泉首相はイラクへ飛び、自分の目で見て、イラクの人に接するべきだ、と提言した。
 「そうして、もしも丸腰で歩いて安全だと判断すれば、自衛隊を武器を持たせずに派遣すればよい、逆に小泉さんが危ない目にあって危険だと判断したのなら、そういうところに自衛隊を送ることは『戦闘行為』になりますから、派遣を断念すればよかった。日本のリーダーが命懸けで現場に赴き判断すること、これが日本の国民にもイラクの国民にももっとも分かりやすい方法です。平和国家を代表して意を尽くしても、テロリストに撃たれることがあるかもしれない。しかし、撃たれたとしても政治家としては本懐ではないですか」』

 至極まっとうな論であると思うが、このまっとうさ加減がなかなか理解されないのが今の時代なのかもしれない。城山には、凶弾に斃れた浜口雄幸首相と井上準之助を描いた「男子の本懐」という作品もあるようで、読んでみたくなった。
 しかし、私が書店で見つけて以来、ずっと読みたいと思っているにもかかわらず、どうしても手にとることのできない城山三郎の本が1冊ある。それは、「そうか、君はもういないのか」という本。・・『五十億の中でただ一人「おい」と呼べる妻へ―愛惜の回想記』などというブックレビューをチラッと見ただけで、もうダメだ、読みたいけど読めない・・。だが、「落日燃ゆ」のTVドラマを見、今まで知らなかった城山三郎の人となりをほんのわずかでも知ってしまった今、これも何かの縁だ、読まねばならないと思う。
 以前読んだ眉村卓の「妻に捧げた1778話」(新潮新書) も、かなり切ない本だったが、城山三郎の遺稿を集めたと言われるこの作品もきっと涙なしでは読み通せないだろう。だが、読まねば!
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