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鹿の子まだら

 とうとう桜が満開になった。ここ1・2日がピークなのだろう、市内のどこを車で走っても、桜はすべて満開だ。10日ほど前に「無理やり花見」と称して集った桜の木も見事なまでに満開となった。


 思えば、開花宣言から満開になるまでこれだけ時間がかかった年はあまりないだろう。花冷えという言葉を実感する日々が続き、きっと桜も震え上がってしまったのだろう、満開になるのにまさかこれほど時間がかかるとは思わなかった。だが、もうそんなことは忘れよう、こんなにきれいに咲いたのだから、ただひたすら花を愛でよう、そんな気になるほど爛漫と咲いた桜は私の心を奪ってしまう・・。
 
 満開に浮かれたような気持ちで昨日一日を過ごしていたが、生徒をバスで迎えにいった先で、ふと見上げた山の斜面に白くなった所がまだら状にあるのに気がついた。


 あの白いのはなんだろう?目を凝らしてみたが、春霞がかかっているのか、判然としない。だが、あれはたぶん・・・、そうだ、きっと桜だ・・。山桜が満開になって、山肌が所々薄いピンクに覆われているように見えるのだろう。こんな風景を眺めていたら、「おお、鹿(か)の子まだら・・」突然私の頭にそんな言葉が浮かんできた。「伊勢物語」の九段に
 『富士の山を見れば、五月のつごもりに、雪いと白うふれり。
   時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪のふるらむ』
という一節がある。富士山の残雪を、茶色の中に白いものがまだら状に混じっている鹿の子の毛並に喩えたのだろうが、ずっと昔に覚えたこの「鹿の子まだら」という言葉が、私の心に浮かんできたのは不思議だ。もちろん残雪などではなく、斜面で開花した桜の花が「鹿の子まだら」に見えたのだが、それがまたいっそうの興趣をそそり、しばし見惚れてしまった。
 見惚れたといえば、上の写真に撮った桜の近くを深夜になって通ったとき、その妖艶な美に惹かれて、思わず車を停めて、しばし夜桜見物をしてしまった。


 明るい陽光の下で堪能するのもいいが、漆黒の闇を背景にして、まるで桜の芯から光があふれ出しているかのように、うっすら明かりを放っているようにさえ見える夜の桜はまた格別だ。桜の向こうに広がる闇へと歩いていったら、黄泉の国へとつながっている、そんな幻想的な思いさえ浮かんでくる。桜花の命の短さを考えれば、明日の朝には散り初めるかもしれない、そんな刹那の美しさを湛える桜だからこそ、私たちの心を騒がせずにはいないのだろう・・。
 
 まあ、私のような年齢になってしまうと、この先何回満開の桜を拝めるのだろう、と指折り数えてしまうから、若い頃より桜の花がいとおしく思えてくるのだろうが、今年の花はいい加減焦らされただけに一層その美しさが際だっているように見える。
 今度の日曜まで咲いているといいけどなあ・・。

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