毎日いろんなことで頭を悩ましながらも、明日のために頑張ろうと自分を励ましています。
疲れるけど、頑張ろう!
レッドクリフ2
中国の書「十八史略」は、赤壁の戦いの模様を以下のように伝える。
瑜(周瑜)の武将黄蓋曰く、「操の軍まさに船艦を連ね、首尾相接す。焼いて走らすべきなり」と。すなわち蒙衝(軍船の一種)・闘艦十艘を取り、燥荻・枯柴を載せ、油をその中に載せ、帷幔に裏(つつ)みて、上に旌旗(せいき)を建て、予め走舸(速い船)を備へて、その尾に繋ぐ。先づ書を以って操に遺(おく)り、詐りて降らんと欲すと為す。
時に東南の風急なり。蓋十艘を以って最も前に著(つ)け、中江に帆を挙げ、余船次を以って倶に進む。操の軍皆指さして言ふ、「蓋降る」と。
去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛く、船往くこと箭のごとし。北船を焼き尽くし、烟焔天に漲る。人馬溺焼し、死する者甚だ衆し。瑜等軽鋭を率ゐ、雷鼓して大いに進む。北軍大いに壊れ、操走(に)げ還る。
「レッドクリフ2」は、まさにこれだけのことを2時間余の映画にしたものだ。私は昨夜これを見た。先にこの映画をご覧になったゴジ健さんは、少々違和感をもたれたようだが、最近北方謙三の「三国志」を読破されたばかりの氏が私に下さった助言は、『「三国志」の「赤壁の戦い」ではなく、「レッドクリフ」として鑑賞するべきだ』というものであった。私にとっての「三国志」は横山光輝の世界であり、しかも30年近くも前に読んだものであるため、ほとんどと言っていいくらい戦いの経緯を忘れ去っていた。上の「十八史略」さえも、高校生が学校の漢文の授業で配布されたプリントの日本語訳を教えてくれと、言ってきたため初めて読んだものであり、「ああ、赤壁の戦いの概略はこんなものか」と思ったほどである。
したがって、私にとって「赤壁の戦い」はまさに初体験に近いものであったため、かなりの迫力で展開されるこの映画の戦闘シーンには、釘付けになってしまった。闇の中での炎は恐ろしい。業火とも呼ぶべき炎が画面(スクリーンと言わなくちゃ・・)から飛び出してくるような迫力で襲ってきて、私の身をも焦がしてしまいそうだった。途中からはどちらが曹操軍でどちらが孫権軍なのか分からなくなってしまうほど、ぐちゃぐちゃな戦いになってしまったが、そうした肉弾戦が戦いの最後の姿なのかもしれない・・。
だが、正直言って、余りに大勢の「雑兵」(そんな言葉で括られる一人一人の命が可哀相だ)が塵芥のように死んでいくのには嫌気がさしてしまった。勇猛果敢な猛将たちは長く語り継がれるであろうが、ただの捨て駒のように次々と木っ端のように殺されていく何千何万の若者たちの死は、いったいどうやって報われるのだろう。「戦いとはそんなもんさ」と嘯くのは簡単だが、そんなもんだからこそ、戦いは起こしてはならないものなのだ、と死屍累々のシーンを見ながら思った。
しかし、この「レッドクリフ」は、そんな感想を抱かせるための映画ではないだろう。周瑜が戦いの終わった後に、「勝者などいない」と叫ぶのを聞いても、どこか空疎な響きを感じてしまい、感慨を抱かせるには至らなかったのも、息もつかせぬ戦闘シーンを口をポカンと空けたままじっと見ていることを、この映画が要求しているからではないだろうか。確かに、余計なことは考えず、頭と心を空っぽにして見ていられれば、これほど面白い映画はなかなかないかもしれない。各所にちりばめられた逸話も大団円を盛り上げる役目を担っていて、よく練られた物語であると感心した。
その中でも、金城武はやはりいい。自然と語り合い、そこから人間のとるべき道を選び出す孔明の泰然自若たる雰囲気を上手く演じている。総じてパート2の方がパート1よりも出演者がそれぞれの役柄をうまく演じているように感じたが、1・2を通じての金城の孔明は抜きん出ていたように思う。他の金城の映画も見てみたい、そんな気にさせてくれた。
でも見終わったのが夜中の3時(どうして?)だったため、妙に興奮して寝つきが悪かったのは、やはりこの映画の持つパワーに当てられたからだろうな・・。
瑜(周瑜)の武将黄蓋曰く、「操の軍まさに船艦を連ね、首尾相接す。焼いて走らすべきなり」と。すなわち蒙衝(軍船の一種)・闘艦十艘を取り、燥荻・枯柴を載せ、油をその中に載せ、帷幔に裏(つつ)みて、上に旌旗(せいき)を建て、予め走舸(速い船)を備へて、その尾に繋ぐ。先づ書を以って操に遺(おく)り、詐りて降らんと欲すと為す。
時に東南の風急なり。蓋十艘を以って最も前に著(つ)け、中江に帆を挙げ、余船次を以って倶に進む。操の軍皆指さして言ふ、「蓋降る」と。
去ること二里余、同時に火を発す。火烈しく風猛く、船往くこと箭のごとし。北船を焼き尽くし、烟焔天に漲る。人馬溺焼し、死する者甚だ衆し。瑜等軽鋭を率ゐ、雷鼓して大いに進む。北軍大いに壊れ、操走(に)げ還る。
「レッドクリフ2」は、まさにこれだけのことを2時間余の映画にしたものだ。私は昨夜これを見た。先にこの映画をご覧になったゴジ健さんは、少々違和感をもたれたようだが、最近北方謙三の「三国志」を読破されたばかりの氏が私に下さった助言は、『「三国志」の「赤壁の戦い」ではなく、「レッドクリフ」として鑑賞するべきだ』というものであった。私にとっての「三国志」は横山光輝の世界であり、しかも30年近くも前に読んだものであるため、ほとんどと言っていいくらい戦いの経緯を忘れ去っていた。上の「十八史略」さえも、高校生が学校の漢文の授業で配布されたプリントの日本語訳を教えてくれと、言ってきたため初めて読んだものであり、「ああ、赤壁の戦いの概略はこんなものか」と思ったほどである。
したがって、私にとって「赤壁の戦い」はまさに初体験に近いものであったため、かなりの迫力で展開されるこの映画の戦闘シーンには、釘付けになってしまった。闇の中での炎は恐ろしい。業火とも呼ぶべき炎が画面(スクリーンと言わなくちゃ・・)から飛び出してくるような迫力で襲ってきて、私の身をも焦がしてしまいそうだった。途中からはどちらが曹操軍でどちらが孫権軍なのか分からなくなってしまうほど、ぐちゃぐちゃな戦いになってしまったが、そうした肉弾戦が戦いの最後の姿なのかもしれない・・。
だが、正直言って、余りに大勢の「雑兵」(そんな言葉で括られる一人一人の命が可哀相だ)が塵芥のように死んでいくのには嫌気がさしてしまった。勇猛果敢な猛将たちは長く語り継がれるであろうが、ただの捨て駒のように次々と木っ端のように殺されていく何千何万の若者たちの死は、いったいどうやって報われるのだろう。「戦いとはそんなもんさ」と嘯くのは簡単だが、そんなもんだからこそ、戦いは起こしてはならないものなのだ、と死屍累々のシーンを見ながら思った。
しかし、この「レッドクリフ」は、そんな感想を抱かせるための映画ではないだろう。周瑜が戦いの終わった後に、「勝者などいない」と叫ぶのを聞いても、どこか空疎な響きを感じてしまい、感慨を抱かせるには至らなかったのも、息もつかせぬ戦闘シーンを口をポカンと空けたままじっと見ていることを、この映画が要求しているからではないだろうか。確かに、余計なことは考えず、頭と心を空っぽにして見ていられれば、これほど面白い映画はなかなかないかもしれない。各所にちりばめられた逸話も大団円を盛り上げる役目を担っていて、よく練られた物語であると感心した。
その中でも、金城武はやはりいい。自然と語り合い、そこから人間のとるべき道を選び出す孔明の泰然自若たる雰囲気を上手く演じている。総じてパート2の方がパート1よりも出演者がそれぞれの役柄をうまく演じているように感じたが、1・2を通じての金城の孔明は抜きん出ていたように思う。他の金城の映画も見てみたい、そんな気にさせてくれた。
でも見終わったのが夜中の3時(どうして?)だったため、妙に興奮して寝つきが悪かったのは、やはりこの映画の持つパワーに当てられたからだろうな・・。
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