じゅくせんのつぶやき

日々の生活の中で感じた事をつぶやきます。

「ボーダー」

2018-03-25 23:05:37 | Weblog
☆ 映画「ボーダー」を観た。ロバート・デ・ニーロとアル・パチーノという2大スターの共演ということで、さすがに楽しませてくれた。

☆ アメリカ版「相棒」とも言えそうだが、ニューヨーク市警のターク刑事(ロバート・デ・ニーロ)は熱血漢。すぐに頭に血が上るタイプ。相棒のルースター刑事(アル・パチーノ)は沈着冷静。軽口をたたいてけむに巻く。

☆ そのニューヨーク市で連続殺人事件が起こった。殺されたのは犯罪者や容疑者。拳銃の腕前から犯人は警官ではないかと・・・。前半はコミカルな場面もあったが、後半はシリアスでミステリアスなドラマに仕上がっている。

☆ 現場の外回りの刑事としてはちょっと高齢すぎるようには思ったが、これは致し方のないことか。(日本で言えば、鶴田浩二と高倉健が刑事をするようなものか)。大スターが出るということで周りのキャストは気を遣うだろうなぁと思った。
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「ザ・マスター」

2018-03-25 20:50:43 | Weblog
☆ 映画「ザ・マスター」(2012年)を観た。

☆ 戦争で心を病んだ一人の男。酒に溺れて、仕事も失敗を重ねていた。自堕落な生活を送っていたある日、ある団体の「マスター」と出会う。その団体は、今でいう自己啓発セミナーのようなものだろうか。催眠術や心理セラピーのメソッドを使って、支持者(信者)を増やしていた。

☆ 男は次第にマスターに心酔し、敵対する人々には暴力も振るう。団体内には彼を追い出すように勧める人もいるがマスターは手放さない。ただこれは愛や慈悲と言ったものではなさそうだ。マスターは破天荒なこの男の中にもう一人の自分自身を見ていたのかも知れない。

☆ マスターの演技は見事だ。カリスマの口調を見事に身につけている。ユーモアと話すスピード。何よりも「間」の取り方だ。ただ人心を掌握する才能はカリスマのカリスマたるゆえんであろう。詐欺師、ペテン師との一線は受け取る側の判断に委ねられる。

☆ 男とマスター、二人の対決が見ものだ。
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芥川龍之介「奉教人の死」

2018-03-25 17:26:26 | Weblog
☆ 芥川龍之介の短編集「奉教人の死」(新潮文庫)から表題作を読む。

☆ 言葉遣いが少々難しいが、読み進めると、リズム感が良いのに気づく。定型詩のようなリズムだ。

☆ 安土桃山時代の長崎を舞台にしたキリシタンの話。キリスト教寺院の前で飢えて倒れていた「少年」を信者たちが助け養う。「少年」はやがて成長するが、女を孕ませたとして破門される。女は子を産む。ある夜、長崎の町は大火に襲われる。大火の中に赤ん坊が取り残され、身を落とした「少年」が自らの危険を顧みず、火の中に飛び込む。無事赤ん坊は助けだされたが、「少年」は火傷を負い死を迎える。その場面で、女はその赤ん坊が「少年」の子ではないことを告白する。そして・・・。

☆ 濡れ衣と知りつつ「少年」はなぜ弁解しなかったのだろうか。伴天連はなぜ「少年」を信じることができなかったのか。奉教人(信者)たちも「少年」を見捨てた。

☆ すべては「でうす(神)」の為せる業と納得してしまう人々が実に不思議に思えた。信仰とはそんなものなのか。

☆ 「自然には逆らえない」という農耕民特有の性癖が、「神」に姿を変えただけなのか。それとも、あきらめることによって前に進もうとする生活の知恵なのか。考えさせられる作品だった。

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斜陽産業

2018-03-25 11:09:38 | Weblog
☆ テレビは春の改編期を迎えている。かつて華々しく活況を呈したこの媒体も少々翳り気味だ。コストと時間がかかるドラマは減り(とりわけ時代劇)、手軽なバラエティが増えているように思う。

☆ かつての映画界のようにテレビ業界も斜陽化しているようだ。時代はネットへ。個人が話題を発信し受信する時代になってきた。

☆ テレビ業界以上に深刻なのが新聞・雑誌などの紙媒体だ。新聞は発行部数が激減している。これもニュースが手軽に見られるスマートフォンの影響が顕著だ。経済産業省が行っている「特定サービス産業動態統計調査」でも、新聞広告費の減少が著しいのがわかる。

☆ 新聞はニュースを伝えるだけでは消費者の購買意欲を刺激しなくなったようだ。テレビの台頭によって速報性で劣る新聞の危機が叫ばれたが、新聞の戸別配達という習慣に支えられて部数を維持してきた。新聞をとることは当然で、あとはどの新聞をとるかで各販売店が拡張を競っていた。高齢化で新聞を敬遠する世帯が増えた。家計の引き締めも厳しい。今や、新聞をとってもらうことが難しい時代になってきた。

☆ 消費者は一層わがままになってきた。与えられるニュース(題材)をただ受け取ることに満足せず、自らの好みで題材を選び楽しむようになってきた。ネットは個人対多数、個人対個人の両面をもつ。それに大手マスメディアのような横柄さもない。もちろん玉石混交であるが、それが面白さでもある。大きな権力に対抗するには弱さもあるが、ネットの広がりが全体主義的な政府を恐れさすほどになっている事実もある。

☆ 政府は放送法を変えようとしている。「放送」という考え自体を改めようとしている。第4条の「政治的に公平であること」を変えようとしている。かつて「偏向」と番組を非難することの多かった保守政党の政府からこのような方針が出たことは驚きだった。「政治的に公平」はタテマエであり、街角インタビューなど結構制作者のフィルターがかかっている。対立する話題では一応両論を並べているが、編集でイメージ操作もできる。話題の人物のどの表情を使うかでも印象が大きく違ってくる。

☆ 権力に批判的なのはマスメディアの役割ともいえる。それを快く思わない権力者は当然いるだろうし、彼らが嫌うメディアはよく仕事しているともいえる。時の政権に好かれるメディアなど眉唾物だ。ただいずれにしても「公平」というタテマエの中で運営されている。それを撤廃するというのだから、実に過激だ。

☆ 「公序良俗」や「秩序安寧」などは司法判断になるのだろうが、右から左まで、それぞれ自分の視点で番組を制作することになる。「政治的に公平」というのはメディアの抑制であると共に防御壁でもある。

☆ 「放送」と「通信」を同一視し、同時に規制しようというなら、それは時の権力者への批判を封じ込める謀略ともなりかねない。この点はこれからの推移を見守りたい。

☆ 時代は急速度で変転している。業界の興亡も一層加速するのだろう。社会の仕組みが出来上がった頃にはまたあらたな技術革新が起こっているかも知れない。仕方のないイタチごっこが続いていく。
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