長堀通りの南側に、松屋町筋(まっちゃまちすじ)から、谷町6を通って、上町筋まで続く空堀(からほり)通り商店街があります。実は、その南側に空堀(水の張ってない堀)があったのです。
秀吉さんが大阪城を守るために築いた堀のうち、この周辺にあった南惣構堀(みなみそうがまえぼり)は、水を入れない空の堀なので、空堀と言われるようになりました。
その後、大阪冬の陣のあと、講和の条件として埋められてしまったのですが、それでも凸凹は残ったのです。
(道路も微妙な凸凹を描いています。)
(上町筋から空堀通り商店街がはじまります。)
(商店街から南側を見ると、堀に向かって凹になっていました。)
(同じく、見事な凹です。)
(この道は「熊野古道」です。10メートルだけ空堀通りを通ります。)
ところで、空堀通りも傾斜しているのです。なぜなら、松屋町筋から上町筋へは、ちょうど上町台地を上るかたちになるのです。(上町筋のあたりが、山でいうところの、頂上稜線みたいなものです。)
(松屋町筋側から見た商店街です。上っています。)
(上りでは、自転車を押して歩いていました。下りはスイスイでした。)
少し足をのばせば、まだまだ凸凹地形に出会えます。谷町筋を歩いていると、西側が急に低くなっているのが実感できます。
(谷町8丁目あたりから西を見ています。底が見えません。)
(谷町6丁目の観音坂です。)
(長堀通りから見上げる榎木大明神)
最後に、「高津原橋」の話で締めくくりましょう。この橋は、横断陸橋ではありません。もともとは両側はつながっていましたが、市電を通すために、開削して道路(長堀通り)にしたようです。つまり凸を削って凹にしたということですね。
秀吉さんが大阪城を守るために築いた堀のうち、この周辺にあった南惣構堀(みなみそうがまえぼり)は、水を入れない空の堀なので、空堀と言われるようになりました。
その後、大阪冬の陣のあと、講和の条件として埋められてしまったのですが、それでも凸凹は残ったのです。
(道路も微妙な凸凹を描いています。)
(上町筋から空堀通り商店街がはじまります。)
(商店街から南側を見ると、堀に向かって凹になっていました。)
(同じく、見事な凹です。)
(この道は「熊野古道」です。10メートルだけ空堀通りを通ります。)
ところで、空堀通りも傾斜しているのです。なぜなら、松屋町筋から上町筋へは、ちょうど上町台地を上るかたちになるのです。(上町筋のあたりが、山でいうところの、頂上稜線みたいなものです。)
(松屋町筋側から見た商店街です。上っています。)
(上りでは、自転車を押して歩いていました。下りはスイスイでした。)
少し足をのばせば、まだまだ凸凹地形に出会えます。谷町筋を歩いていると、西側が急に低くなっているのが実感できます。
(谷町8丁目あたりから西を見ています。底が見えません。)
(谷町6丁目の観音坂です。)
(長堀通りから見上げる榎木大明神)
最後に、「高津原橋」の話で締めくくりましょう。この橋は、横断陸橋ではありません。もともとは両側はつながっていましたが、市電を通すために、開削して道路(長堀通り)にしたようです。つまり凸を削って凹にしたということですね。