京街道は、豊臣秀吉が大坂と伏見を結ぶためにつくった街道です。
以前、関目5から守口の文禄堤までを歩いたことがあるのですが、「関目七曲り」のことは気になりながら忘れていました。
ところが、最近テレビで「関目七曲り」のことが取り上げられているのを観て、さっそく出かけました。
スタートは野江水神社です。京街道とはあまり関係はないようでした。
野江内代(のえうちんだい)駅から城北筋を少し北に行くと「京街道」の道標がありました。
右の道を進むのですが、雰囲気のある道です。
その道を進みます。
やがて都島通に合流して、国道筋商店街を進みます。これまた雰囲気のある商店街です。国道筋というものの都島通は国道ではないと思うのですが。
そして、いよいよ「七曲り」の始まりです。右は都島通で、左の枝道に入って行きます。
まずは右に曲がるようです。
ここにも道標がありました。
今度は左に曲がるようです。
そして、右に曲がります。
ゆるく左にカーブして、右に曲がります。
町内会の地図がありました。なるほどクネクネ感がよくわかります。
ここで都島通に合流ですが、京街道は都島通を渡った細い道に続いています。
都島通を渡ったところで碑を発見です。「明治天皇所聖躅(せいちょく)」明治天皇がここに来られたことを示す碑です。
1868年(慶應4年・明治元年)天保山での観艦式に臨むため大坂に向かう途中、このあたりにあった茶屋で休憩をとられたそうです。
細い道ですが、ここもよく曲がっています。
街道の雰囲気が漂います。この道を幕末の多くの有名人が行き来したのかと思うと感慨深いものがあります。
どこの町にもありそうな道ですが、ここが歴史街道とは、教えてもらわないとわかりませんね。
そして、前回のスタート地点の関目5に到着です。まっすぐに走るのが国道1号線、右に走るのが国道163号線、その間の斜めに走るのが京街道です。
今回はここまでとしました。
ところで、ここまでクネクネ道をなぜつくったのかは、大坂城の防御のためといわれていますが、本当にそれが理由なんでしょうか。
実際に歩いてみてそんな疑問が起きました。
京街道は、江戸時代になり東海道57次として利用されるようになりました。その宿場とは伏見・淀・枚方・守口の4宿です。
※訪問日 2021.6.29
以前、関目5から守口の文禄堤までを歩いたことがあるのですが、「関目七曲り」のことは気になりながら忘れていました。
ところが、最近テレビで「関目七曲り」のことが取り上げられているのを観て、さっそく出かけました。
スタートは野江水神社です。京街道とはあまり関係はないようでした。
野江内代(のえうちんだい)駅から城北筋を少し北に行くと「京街道」の道標がありました。
右の道を進むのですが、雰囲気のある道です。
その道を進みます。
やがて都島通に合流して、国道筋商店街を進みます。これまた雰囲気のある商店街です。国道筋というものの都島通は国道ではないと思うのですが。
そして、いよいよ「七曲り」の始まりです。右は都島通で、左の枝道に入って行きます。
まずは右に曲がるようです。
ここにも道標がありました。
今度は左に曲がるようです。
そして、右に曲がります。
ゆるく左にカーブして、右に曲がります。
町内会の地図がありました。なるほどクネクネ感がよくわかります。
ここで都島通に合流ですが、京街道は都島通を渡った細い道に続いています。
都島通を渡ったところで碑を発見です。「明治天皇所聖躅(せいちょく)」明治天皇がここに来られたことを示す碑です。
1868年(慶應4年・明治元年)天保山での観艦式に臨むため大坂に向かう途中、このあたりにあった茶屋で休憩をとられたそうです。
細い道ですが、ここもよく曲がっています。
街道の雰囲気が漂います。この道を幕末の多くの有名人が行き来したのかと思うと感慨深いものがあります。
どこの町にもありそうな道ですが、ここが歴史街道とは、教えてもらわないとわかりませんね。
そして、前回のスタート地点の関目5に到着です。まっすぐに走るのが国道1号線、右に走るのが国道163号線、その間の斜めに走るのが京街道です。
今回はここまでとしました。
ところで、ここまでクネクネ道をなぜつくったのかは、大坂城の防御のためといわれていますが、本当にそれが理由なんでしょうか。
実際に歩いてみてそんな疑問が起きました。
京街道は、江戸時代になり東海道57次として利用されるようになりました。その宿場とは伏見・淀・枚方・守口の4宿です。
※訪問日 2021.6.29