はりさんの旅日記

気分は芭蕉か司馬遼太郎。時々、宮本常一。まあぼちぼちいこか。
     

二上山ハイキング+古代史の舞台を歩く

2015-05-31 20:20:30 | 古代史の舞台を歩く
二上山(にじょうさん)は、古くは「ふたかみやま」と呼ばれていました。そちらの方が味わいがありますね。特徴的な形をしているので、大阪側から見ても、奈良側から見ても、すぐにそれとわかります。
 (麓から見た二上山)
二上山に登るには、近鉄電車二上山駅から登るのが一般的です。頂上(雄岳:517メートル)まで、1時間15分もあれば登ることが出来ます。道もよく整備されています。ただ、残念ながら視界がよくありません。頂上に立っても同じです。
 (静かな山道)
頂上には、悲劇の皇子といわれる大津皇子の墳墓があります。(もちろん宮内庁管理です。)大津皇子とは、天武天皇の息子で、文武ともに優れていたうえ、高貴の身分におごることもなく、誰からも愛されていたと伝えられています。しかし、謀反の嫌疑をかけられ、24歳の若さで自害に追い込まれた人物です。実は、持統女帝の陰謀ではないかという噂がもっぱらです。(これも「藤原宮を歩く」で書きました。)
 (大津皇子の墳墓)
このお墓も江戸時代に定められたそうで、「百舌鳥古墳群」でも書きましたが、本当に大津皇子が葬られているのかは疑問です。そのことは、すぐ後で書きます。
雄岳からいったん下ると、馬の背と呼ばれる鞍部があります。雌岳にも登ったら、祐泉寺に向かって下山です。
山道が終わると、大きなため池が見えてきます。その手前に、「鳥谷口古墳」があります。
 (鳥谷口古墳案内板)
案内板には、7世紀後半に造られたとか、未製品の蓋石が利用されているとか書かれています。そして、この古墳こそが、大津皇子のお墓ではないかと考えられています。その理由として、当時の古墳が山の頂上に造られることはなかったということがあります。もう一つは、「万葉集」に残されている、大津皇子の姉の大伯皇女の歌にあります。「うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟背と我が見む」(もう今はいない弟を、これからは二上山と思ってすごそう。)の歌の前文に、「弟の屍を二上山に移し葬る時に、嘆き悲しんで作った歌」とあります。これは、二上山周辺に大津皇子の墳墓があり、しかも改葬墓の可能性を示唆しているのではと考えられるからです。
 (横口式石槨:柵の中)
ここが本当の大津皇子の墳墓なのかな?やっぱり古代史のロマンやなと思いながら、駅への道を急ぎました。
 (鳥谷口古墳全景)
あっ、そうそう。近くには、中将姫伝説で有名な當麻寺(当麻寺)があります。民族学者、国文学者、歌人としても有名な折口信夫さんの『死者の書』は、大津皇子や中将姫のことを題材にした物語です。その物語を思い出しながら近鉄当麻寺の駅前で、中将餅をいただきました。やっぱり、花より団子ですか。

思い出の山歩き (三角点の続きで、剱岳です。)

2015-05-30 22:17:40 | 山歩き
剱岳といえば、「岩と雪の殿堂」というイメージですが、夏山限定一般道歩き人間としては、岩も雪もあまり縁はありません。ところが、この剱岳はどうしても岩場の通過が不可欠で、ちょっとヤバイ箇所もあります。(この山旅は2007年8月24日・25日の記録です。)

剱岳へのスタート地点は室堂です。室堂までは、ケーブル・バスと乗り継いで楽に行くことが出来ます。室堂周辺は遊歩道になっており、観光客の人もたくさん歩いています。ミクリガ池、地獄谷を経て雷鳥沢キャンプ場へいったん下ります。
 (雷鳥沢キャンプ場とこれから登る雷鳥沢)
浄土川の橋を渡ると、本格的な登りが始まります。この坂はとても思い出のあるところです。この山旅は息子との二人旅ですが、まだ彼が小学生の時にも剱岳をめざしたことがあります。その時は、彼が高山病になり、富山県警山岳救助隊のお世話になったことがあるのです。真っ暗な山道を、山岳救助隊のみなさんが息子を背負ってこの坂を下りてくださいました。さすが山岳救助隊、みなさん足の速いこと、必死にあとを追いかけた思い出があります。もちろんこの時は登頂を残念しました。それから、18年目のリベンジの山旅です。
 (雷鳥坂の登りから振り返る)
2時間ほど頑張ると、別山乗越に到着です。目の前には、剱岳の威容が飛び込んできます。いつ見ても貫禄があります。「どこからでも、かかってきなさい。」と言っているようです。
 (剱岳がそびえる)
剱御前小屋でラーメン(カップラーメンにお湯を入れるだけ。)を食べて、今日の宿泊地である剣山荘に向かいます。途中に雪渓があったりするので、慎重に越えていきます。
 (雪渓を慎重に越える)
だんだんと剱岳が迫ってきます。赤い屋根の剣山荘も見えてきました。もう一踏ん張りです。小屋はけっこう混んでいました。それでも、布団1枚は確保できました。
 (剱岳が迫ってきました)

翌日、起床は4時です。すぐに支度をして、出発です。ヘッドランプをつけて、まだ暗い山道を登っていきます。他のみなさんも早いので、ヘッドランプの明かりが続いています。5時過ぎになってやっと、東の山からお日様が出てきました。
 (鹿島槍ヶ岳からの日の出)
登山道は、いよいよ核心部にさしかかります。細いブリッジを渡ったり、壁をトラバースしたりと、気が抜けない登りが続きます。
 (門の手前のブリッジを渡る)
 (右下が切れ落ちている)
 (鎖場を下る)
そして、いよいよ「カニのタテバイ」といわれる難所です。遭難事故もよく起きているところなので、慎重に足場を確かめながら登ります。そこを越えれば、もう少しで山頂です。
 (カニのタテバイ)
午前7時15分、山小屋を出て3時間でやっと頂上に到着です。息子と握手をかわし、18年ぶりの登頂を喜びました。写真を撮ったり、山小屋の弁当を食べたりと、30分ほど頂上で感激を味わいました。
 (頂上です)
しかし、まだ下山があるのです。下山も決して気が抜けません。下りには「カニのヨコバイ」が待っています。
 (下りの核心部)
そこもなんとか通過して、無事に剣山荘に帰り着くことができました。やっと安心して、ビールで乾杯です。あとは室堂までダラダラと歩いて帰るのみです。
登頂の感激の余韻を確かめながら室堂への道を下りました。

三角点のおはなしです

2015-05-30 20:20:21 | 山歩き
先日の「六甲山へハイキング」で、最高峰にあった一等三角点のことを書きました。その手前のりっぱなモニュメントが目立つので、それを一等三角点と間違われる人もいるかもしれません。(一等三角点は一辺が18センチ角の標石です。本来、地上に出ている部分が全体の約4分の1なのですが、六甲山のはちょと埋まりすぎですね。)
 (六甲山頂上にある一等三角点。標識の右の出っ張り)

ところで、三角点って何でしょう?三角点とは、三角測量をおこなうとき、地表に埋定された基準点のことをいいます。三角点には、一等から四等までの4種類があります。三角点の数は、全国に10万点以上あり、そのうち一等三角点は、974点あるそうです。一等三角点だからといって富士山の頂上にあるわけではありません。あくまでも、見晴らしの良い所にあるので、山の頂上にあるわけでもありません。富士山の頂上に一等三角点がないのは、隣接する一等三角点から見えにくかったからです。(富士山の頂上にあるのは二等三角点です。)

2009年に「劔岳<点の記>」という映画が公開されました。新田次郎さんの小説を映画化したものです。(もう6年になるんですね。)この映画(小説)は、明治時代に参謀本部陸地測量部が剣岳に初登頂し、三角点をたてるまでの様子を描いたものです。当時、劔岳は登頂不可能な山と考えられていました。そして、苦労の末なんとか頂上にたどり着いたのですが(明治40年:1907年)、そこで発見された物は、奈良時代から平安時代にかけての(時代が定まっていません。)修験者の錫杖の頭だったのです。
その時の陸地測量部は、三角点標石(60キロほどあります。)は埋設できずに、木材1本を針金で支えた、臨時の四等三角点を設置したのみでした。そのため残念ながら「点の記」には記録は残っていません。「点の記」というのは、一等から三等までの三角点設定の記録で、明治21年以来の記録は今も国土地理院に残されています。

現在、劔岳山頂にある三等三角点は、陸地測量部の登頂から100年後の2007年に、それを記念して設置されたものです。
劔岳には、その2007年の夏に登りましたが、今まで登った山で一番こわい山でした。
 (別山乗越から望む劔岳 2007.8.25)

六甲山へハイキング

2015-05-27 19:57:05 | 山歩き
今回は体力作りも兼ねて、久しぶりにハイキングに出かけました。
 (七曲りからの東お多福山)
六甲山の代表的なコースである、芦屋川ーー風吹岩ーー六甲最高峰ーー有馬温泉のコースです。初級コースということで危険な所はありませんし、道標に従って歩けば迷わずに歩けます。(今回は出合わなかったですが、イノシシが出没するようです。)ただ全行程が13キロと、ちょと長いかもしれません。今回は、久しぶりの山歩きだったので、なかなかしんどかったです!
阪急芦屋川駅を出発して歩いていると、さすが「芦屋」という邸宅が並んでいます。邸宅街を抜けると、山道に入っていきます。そこに現れるのが、「高座の滝」です。
 (涼しげな高座の滝)
ここから本格的な登りになります。すぐに有名な「ロックガーデン」にさしかかります。一応は岩場ですので慎重に通過しましょう。鎖もあるんですよ。
 (ロックガーデン)
30分ほど登ると、「風吹岩」に到着です。景色もいいので、みなさんここで休憩です。ここまで1時間15分と、まあまあのペースで来ました。私も休憩です。あんパンとお茶をいただきました。
 (風吹岩)
さて、次は最高峰に向かって歩きます。風吹岩から2時間の行程です。はじめは下って、そして上ってとアップダウンがあります。途中、ゴルフ場の中を通ったり、本庄橋跡を通ったりして、最後の登りにかかります。
 (ゴルフ場にあるゲート)
そうして、やっとのことで頂上の下にある「一軒茶屋」に着きました。やめとけばいいのに、嬉しくて、「ビールください。」でも、美味しかったです。
 (一軒茶屋)
一軒茶屋の前には、ドライブウェイが通っていて、車で簡単にここまで来ることができるのですよ。一軒茶屋から5分も歩けば頂上(六甲最高峰)です。
 (最高峰と三角点)
六甲山の最高点は、私の若い頃は、米軍の施設があって、立ち入り禁止だったのです。今は写真のような標識と一等三角点(写真では見にくいですが、標識の右にある石の出っ張り)まで行くことが出来ます。
頂上からの眺めは、本来はすばらしいのですが、ちょっと霞んでいました。
 (頂上からの眺め)
さあ、そろそろ下山しましょう。下山は有馬温泉に向かって、「魚屋道(ととやみち)」を下ります。魚屋道というのは、江戸時代に、魚崎あたりの魚屋さんが、山を越えて有馬温泉に魚を運んだという古い道です。なかなか雰囲気のある道です。
 (ととや道)
ビールが良くなかったのか、ヨロヨロしながらも、なんとか有馬温泉までたどり着くことができました。「ああ、しんどかった!」
 (有馬温泉の道)
最後は、金の湯にでもつかって…。と思ったのですが、時間がアリマせんでした。(お粗末)

古代史の舞台を歩く(平城宮から平群)

2015-05-25 21:23:35 | 古代史の舞台を歩く
平城宮から大宮通りを東に15分、国道24号線を越えたあたりに、イトーヨーカドー奈良店の店舗が見えます。ここが、長屋王の屋敷のあった所です。八っつあん、熊さんの住んでいる長屋があったところではありませんよ。「長屋王の変」(729年)で知られる人です。
 (イトーヨーカドー 大きなスーパーマーケットです)
長屋王は、壬申の乱で活躍した高市皇子(天武天皇の息子)の息子で、当時54歳と、貫禄のある年齢で、左大臣として政界のトップの位置にあり、本人ないしその子どもは、聖武天皇後の皇位継承者として考えられていたようです。

ところで、長屋王邸は、奈良そごうデパート(現在はイトーヨーカドーに)建設中に発見されました。4万点に及ぶ木簡も発見され、長屋王邸であることが確かめられました。「長屋親王宮」の木簡が示すように、まさに絶好調の地位を確立していたようです。なかなか贅沢な暮らしぶりも、木簡から伺えるようです。
屋敷跡も甲子園球場の1.5倍もあったそうです。それにしても、その遺跡も今やデパートの下です。貧困な文化財行政ですね。一説によると、奈良そごうが閉店したのは、長屋王の祟りとか??
 (イトーヨーカドーの前にある長屋王邸跡の案内板)

そんな絶好調な長屋王を喜べない人たちがいたのです。皇位継承とも関わって、藤原4兄弟が動いたと考えられています。それが「長屋王の変」です。(このあたりの詳しい事情は、長くなるので書きませんが、要は長屋王系に皇位がいってしまうと、藤原4兄弟が天皇の叔父としての影響力が無くなってしまうことの危機感があったのでしょう。)
729年、下級役人らが、「左大臣正二位長屋王、ひそかに左道を学び、国家を傾けむとす」と密告したことにより、兵が長屋王邸を囲みました。そして、長屋王、妻の吉備内親王(草壁皇子の娘で、文武天皇の妹:この人も血統よすぎ)及び子どもたちが自殺させられました。その翌日には、二人の遺体を生駒山に葬るという早業でした。
その後、『続日本紀』に、密告は「誣告」であったという記事が出てきます。「誣告」とは、無実の罪で人を告発することなので、長屋王が無実の罪で滅ぼされたことは、公然のこととなっていたようです。

そこで、長屋王のお墓のある平群(へぐり)の地を訪ねてみました。長屋王のお墓には、近鉄生駒駅で生駒線に乗り換えて、平群駅で降ります。(生駒線は単線で、王子までつながっています。)平群駅からの景色は、信貴山や生駒山が近くに見えて、なかなかすばらしいです。
 (近鉄平群駅)
駅から15分ほど歩くと、長屋王のお墓が見えてきます。「その葬礼はいやしくすることなかれ」と勅令が出たので、丁寧に葬られたのでしょう。当然?宮内庁の管理です。小さな円墳でした。(当時は、大古墳を造る時代は終わっていました。)
 (長屋王のお墓)

 
そこから5分もかからない所に、吉備内親王のお墓がありました。今は家が建て込んでいますが、当時は仲良く並んでいるように造られたのでしょうね。
 (妻の吉備内親王のお墓)

ただ、お墓については「生駒山に葬る」という記事しかないので、以前「百舌鳥古墳群を歩く」で書いたように、100%そうなのかは、疑問の残るところですね。まあ、これも歴史のロマンということでしょう。