東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

学問だけが我々を偶然の戯れから救い出す(ディーツゲン)

2024-11-08 06:44:41 | 哲学(世界観・弁証法・認識論・論理学)
 昨夜は、バドミントン教室までの約5km を速報で歩いた。(途中、スマッシュの足運びを練習しながら)

 これは「股関節重心」の成否の試しであり、また来春よりの、週2で中山寺奥の院登山を可能にするための準備運動、との思いのでもある。

 昨夜の5キロの速歩+バドミントン教室1時間半を行っても、夜中に足がつることもなく、今朝も膝が痛むこともなくであった。
 これは一重に「股関節重心」修練の賜物と思える。

 もう一つ、昨夜のバドミントン教室に関わる出来事。
 バドミントン教室で練習終わりの用具片付けを終えて戻って来ると自身のラケットがなくなっており探し回った。結局、掃除道具置き場の下に、隠すように置いてあったのを教室メンバーが見つけてくれた。
 犯人に心当たりはあるものの「何で恨みを買うかわからないなあ^^;」と、「相手構わず、思ったことを口にしてしまうこと慎まねば!」との思いとなった。

 さて、今日の本題の学問とは何かについて、学問とは論理の体系であり、それは一般論(本質論)⇆構造論⇆現象論という構造を持つ。
 また、人類の歴史に尋ねれば、一般論→現象論→構造論→本質論という過程的構造を持つものであるから、個しての研鑽にあたっても、まずは(仮説的)一般論の定立を、そこからのその一般論を把持しての事実の究明の中での現象論から構造論へ、そしてそれが本質論へと高まって(深まって)いっての学問の完成である。

 加えて、観念論の立場の場合、最初に保持した一般論(= 観念)から現象を説いていく。
 唯物論の場合は、最初の一般論の定立というものが事実から上がっての一般論となるという違いがある。

 以上が自身の学問についてのアバウトなイメージである。その正否は別として、ここを(仮説的)一般論として、自身の研鑽は行われている。

 農学(= 農業の学問 =農業についての科学的体系的認識)の実際的効用は、作物をたくさん作ることでは無しに(それは経験豊富な農業者ならば可能である)、「成果を予測しての作物を作る」こと( = 農業を可能にすること)である。
 対象の科学的な体系的把握= 学問だけが我々を偶然の戯れから救い出す。とディーツゲンが(原文に当たっていないので、アバウトには)言っていたが、まさに学問の効用・必要性というのはそこにあると思える。



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