緑ヶ丘・第二幼稚園 最新かがやき日記

緑ヶ丘・第二幼稚園のかがやく子ども達の成長を見守り、親も教師も園長も子どもに負けず共に成長する日々を綴った日記です。

ロバート・ワトソン先生講演会その2

2011年01月15日 06時10分25秒 | 研修会・セミナー

平成23年1月15日(土) 

  以下は、昨日のロバート・ワトソン先生講演会のお話の続きです。

   さて、皆さんは、スプライトという清涼飲料を知っていますか?

   暑い国、サウジアラビアで発売開始したが、全然売れなかったのです。

   もちろんテレビで宣伝しました。 三枚の絵を並べて、ポスターも作りました。


①太陽が照り付けて暑そうな人の絵 ②スプライトを飲んでいる絵  ③元気に爽やかな絵 


     でも、何故か、スプライトはサウジアラビアでは売れなかったのです。

     売れなかったのにはちゃんと理由がありました。     

 

     普通、欧米人は、左から右へ視線を動かして三枚の絵のイメージをします。

     すると、「暑くてぐったりしている人が、スプライトを飲めば、元気になれる…」

     そういう風な爽やかイメージを描いてこのPR画面を見てくれるものと

     勝手に思い込んでいたのです。 

      ところが、サウジアラビアの人は、この三枚の絵を、右から左へ文字を書く

     文化的な背景から、絶対に左から右へ視線を動かして見ないのです。

     (我々の想像の範囲では思いもよらないことですが)実は、サウジアラビアの人は、

     この三枚の絵を、右から左へ視線を動かして見て、判断しているのです。

     つまり、「元気な人が、スプライトを飲めば、暑くてぐったりする」と、なるのです。

     だから、サウジアラビアの人は、誰も、好んでスプライトを飲みたいとは思わない。

     売れない訳がこのようにちゃんとあったのです。

      

      やはり、育った環境や受けた教育の違いで 色々と解釈が異なり

     全く同じ絵を見ても受け取り方や意味づけが全然違ってくるのです。

 

     これは、同じ日本人でも よくあることでしょう。

    味噌汁の作り方、子どもの躾け方、掃除の仕方、洗濯物の干し方、…

    それぞれの生育歴や家庭毎に微妙にやり方が違うのです。

    今、二人の息子達が通っている高校のPTA会長をしていますが…

    その話の中からの例ですが、ある時に会議がありました。

    部活生の親は、平常も夏休み中でも、ビシバシと厳しくしごいて県大会で

   活躍できるようにと願い、「宿題はたくさん出さないで!」と言う。

     だが、一方、「いや、就職や進学が迫っているから、宿題をしっかり出して、

    家庭学習でも学力をつける癖ができるように配慮してほしい。」と

    まるで正反対の事を要求してくる親たちもいる。

    かと思うと「日頃は、たっぷり出して欲しいが、夏休み中は家族旅行に行きたいから

    宿題は無いほうが助かる。」とか… 色々と人により考え方が違うのです。

     

     ワトソンさんは、歌が好きで、高校生の頃、合唱団で歌っていた。

    夏休みにその高校の合唱団はヨーロッパへ演奏旅行に行った。

     その頃は、海外の色々な国、国際的なことに強い関心があった。

    それで、その後、日本へ19歳の時に来た。 東京・神奈川に2年間滞在。

    そのときに、初めて日本の家で、靴は脱いで家に上がる和風の生活を体験した。

    最初の歓迎の日に、ご馳走が出ていた。最後に美味しそうな手作りのケーキが出た。

    とても食べたかったが、日本では、「遠慮」という言葉がある、と知っていたので、

    最初は遠慮するのが常識と思いこんでいた。それで3回目に勧められたら

    食べるつもりで、「結構です。いりません。」と言ってしまった。

    それで、その人は、そのケーキは直ぐに片付けてしまい食べられず残念だった。

     後日、その時の事をその人に話したら、傑作なことが判明した。

     その人は、気を利かせて相手のことを思い遣り、外国の人は、ストレートに

     ハッキリ返事をするものだと、思い込んでいたから、「いらない」と言われたら、

     しつこく勧めて無理やりにケーキを食べさせてもいけないと思ったので、

     ワトソン君は、本当に ケーキは嫌いでいらないのだと思い込んで

     直ぐに引っ込めたと話して、まるで、笑い話みたいなエピソードです。

 

     そして、8月になり、盆踊り大会がありました。

    自分は、二階にいたら、一階から素敵な歌声が聞こえて来たのです。

   ♪「守りもいやがる ぼんからさきにゃ 雪もちらつくし 子も泣くし

   はよも行きたや この在所(ざいしょ)こえて 向こうに見えるは 親の家(うち) …」

    哀切なメロディーにのせて、1971年にフォークグループ「赤い鳥」が

    大ヒットさせた歌 ♪『竹田の子守唄』でした。

    子守唄に出てくる「在所」は、京都の竹田では被差別をさすことがあるそうです。

    明治から大正、昭和にかけて、幼い少女たちが子守奉公や弟妹の世話をしていた。

    『竹田の子守唄』は、子守りのつらさや嘆き、自らへの励ましを込めた労働歌だった。

    この歌声に魅了され、とりこになって、この歌詞を日本語で覚えたそうです。

    (ここで、大山町カラオケ大会では、3回も優勝したその美声をご披露くださった。)

    2年間、東京で日本語を学んで米国に帰ってから、日本大使館に電話した。

    「日本で働きたいので、どうか職を探してください。」

    すると、国際交流協会からの紹介で

    コーネル フォーインターナショナル リレーションズ とあったので 大使や公使の

    お手伝い役かと思っていたら、東京や大都市でなく、大分県の日田市大山町に就職。

    待っていますと手紙が来た。夜9時に着いた。翌朝山々からうぐいすの声が聞こえた。    

    ここは、故郷のアイダホと自然環境や風景が似ている。人口4000人の小さな農村。

    少し散歩、通りかかった人が「ワトソンさん!おはようございます!」と言って挨拶。

    またもう少し行くと、自転車に乗った中学生も

    「ワトソンさんですね!おはようございます!」と笑顔で言ってくれた。

    なぜ自分の名前を知っているのか?不思議に思っていたら、会う人会う人

    「あ!ワトソンさん、あなたのことは皆知っているよ。」

    「いらっしゃるのを待っていましたよ。」 と言って大歓迎の様子にビックリ。

    

    この田舎には、OYT(大山有線テレビ)と言うのがあって、すでに

    『ワトソンさんがやってくる!』という番組がながされていたのです。

    だから、町民は、全員ワトソンさんのことをよく知っていたのでした。

 

   大山町は、一村一品運動のさきがけの村おこしの村としてよく知られている町です。

   町民の合言葉は、「梅、栗、植えて、ハワイへ行こう!」です。

   ここで、日田美人との出会い。

   その人は3人の子連れ。結ばれて一気に5人家族。

   長男 ワトソン竜太(大学3年生) 

   次男 ワトソン祥太(高校3年生)

   三男 ワトソン健太(高校2年生)

   いきなり3人の男の子の父親にもなった。

   無限の可能性を持った子どもたち。

   今では、プロ野球のダルビッシ選手や タレントのウェンツや、ヴィッキーもいて

   混血のハーフの人やカタカナの名前の人に対する世間の風当たりは昔のように

   厳しくはなくなったが、それでも、偏見や先入観で判断し、ジロジロ見る人が多い。

  

   大分県杵築市の野上さんの案内で大原邸という所に行った。 

    野上さんは、案内しながら、大変心を打つ話をしてくれた。 

   「現代人は、日本の形を守ってはいるが、心を忘れている。…」

   

   和室では、年長者、偉い人、目上の人は、「上座(かみざ)」といわれて、案内され、

  床の間の前の席を上席として座らせられた。

  そして、掛け軸や、生け花や床飾りの説明が始まった。

   自分は、床の間を背にして座らせられているので、首を曲げて説明を聞いていた。

  花瓶や掛け軸の説明がある間は、身体を曲げて、首も痛くなってきていた。どういう

  理由で、上座に目上の人や、お客様を座らせるようになったのか?は大事じゃない。

  どういう心でそうなったのかが大事。お侍がいた時代は背後から切りつけられない。

  出入りする人の顔が見えるので、いきなり敵に切りつけられないようおもいやりの心。

  だから、今までやって来た事を守っているだけというのは、形に拘った考え方。

   人権同和問題でも、生まれたところだけで問題視、差別されるのは、単なる形だけに

  囚われてしまった人のすること。男女差別も、「男はこう、女はこうあるべき」という形に

  囚われてしまった人のすること。

  

  さて、その頃、バングラディシュから派遣されていた職員のカンさんと仲良しになった。

 カンさんが、故郷に帰国してから、暫くして

 「今だったら、少し治安がよくなり政情が落ち着いてきたから遊びにいらっしゃい。」

 という連絡がきたので、バングラへ行くことにした。(一日に5人も暗殺される国。)

 ムンバイ空港から8時間かかり、ガンジス川のフェリーに乗った。

 船のトイレには、板があるだけで、その隙間から排泄物は直接ガンジス川へ。

 牛や馬の死体も全て川に捨てる。そこで、沐浴する人もいれば、煮炊きの水も汲む。

 貧しくて、衛生状態のよくない国。だが、家庭にはとびきりあたたかい心のある国。

   やっと、カンさんに会えた。カンさんの二人の息子は、18歳と15歳。

  挨拶も良くできる子ども達。家では、3人で仲良く肩を組んですわっていた。

 父親のカンさんを 二人の息子は尊敬し 心から敬愛しているとわかった。

 何故ならば、「父が働いてくれるお陰で、一日三食のカレーが食べられるし、服もあるし、

 学校にも行かせてもらえるから。」と、幸せそうに言いました。

 本当に、この国では、学校に行ける子は、30パーセント以下です。学校は、無料ですが、

 仕事に行かなくては食べられない子どもが多いのです。

 「ぼくが大きくなったら、お父さんのように役に立つ人になりたい。」 と息子達は

 父親を誇りにして、日本と比べると何も物質的には恵まれては無いが、

 胸を張って生き生きと明るく楽しそうに生きている。

  カンさんが電話をしていた。 子ども達もその言葉づかいがとても丁寧。

 

 ところが、ワトソン先生は、いつも気になる場面に遭遇しているそうです。

 大山に少年バスケットボールクラブを設立し指導してるのだそうですが、

 その事を思い出したのは、家族への言葉遣いの違いに気づいたからでした。

 大山では、子どもは家に電話でただ「終わった。」だけ。

 親が迎えにきたら「おせえ。」だけ。

 「バカ!」「死ね!「アホ!」と、ひとに平気で言う子どももいた。

 携帯ゲームや、ゲームのソフトが欲しいばかり、とにかくこずかいのお金が欲しい。

 見栄を張りひとより良い車に乗りたい。 少し注意されたり、きついと直ぐに辞める。

 ワトソン先生は、家族の間の、「言葉」と「態度」と「接し方」がこれでよいのだろうかと、

 日本人の心の在り方に警鐘を鳴らしてる。

 家族は、愛し合っていますか? それとも拒み合っていますか?

 

 「愛」という字は、「受ける」という字をかきます。何を受けるのでしょうか。

 「心」を「受ける」と書いて「愛」なのです。

 日本人は、この「心」を見失っていませんか?

 「形」を離れて自分の「心」を見直すことが大事です。

 つまり、「感謝して、やさしい心を持とう!」と、訴えておられるのです。

 

 第22回全国人権作文に 中学1年生のワトソン竜太君のが最優秀賞に選ばれた。

 鞄の中から、大事そうに取り出して、その作文を読んでご紹介くださった。

 

 「ぼくのお父さんは、アメリカ人です。…大山に12年間、その前は東京に2年間いたので、

 日本語も分かるし、『おにぎり』位は何度も食べていて、知っている。

 だのに、運動会の時には、ある人が、「おにぎり知ってる?」と言って話しかけてくれた。

 お父さんが「勿論知っているよ!何度も食べているよ。」と言う間もなく、その人は、

 「あっ!外人は、おにぎりより パンのほうがいいのでしょう。」と、早合点して、

 悪気は無いのでしょうが、さーっと向こうへ持っていってしまった。

 普通だったら「おにぎりをどうぞ!」とだけいう筈なのに。

 とても変!… というような 外国人に対する予断と偏見について書かれていました。

  

 さて、今、精神障害者の作業施設『まんげきょう』の所長をしている。

この人たちは、「もっと元気を出せ!」と言っても無理です。

家族皆で、親が、この人はおかしいと、決め付けて判断している。

人を見た目で判断してはいけません。

違う。だからうれしいのです。

 

実家の母は、結婚すると報告の電話をすると、

「よかったね!おめでとう!3人も孫が出来た!」

と、とても喜んでくれ、人種に拘ったりはしなかった。

そして、夏休みにアイダホへ新しい家族を連れて帰ったのです。

アメリカでは、人種差別を受ける恐れもあったが、

親戚の子たちも最初から黄色人種の3人を仲良く受け入れて遊んでくれた。

 

最近の若い父母は、赤ちゃんが出来て、初めて抱っこをする人が多いが、

ワトソン先生は、6歳の時に抱っこしてあやした経験があるそうです。

初めてオムツを替えたのは7歳のときだった。

そして、12歳の時には赤ちゃんの子守り(ベビーシッター)をして、

午後8時には寝かせつけてねと頼まれて、そうしていたそうです。

 

最近は、夜遅く11時、12時まで起きていて、朝寝坊をする子どもが増えているそうです。

祖父母には「くさい!早く死ねばいいのに。」と、言う孫達もいるのだそうです。

 

ある小さな町で、畑でおじいさんが作業しているところで、

中学の真新しい制服を着た子どもが通りかかった。

「おはようございます。」「おや、きみは中学生?」と、おじいさんは声をかけた。

「おはようございます。」「はい、入学式です。」

毎朝のように、挨拶を交わしていた矢野さん。

2年で、剣道部に入って活躍。剣道の試合の日には、矢野さんは応援に来てくれていた。

嬉しい心の交流。

3年生になって、ヘルメットを被ってないのに気づいた矢野さんは、

「危ないぞ、必ず被れ!」と注意した。

高校生になったある日、矢野さんは倒れた。

「ホームヘルパーを派遣しましょうか?」と役場の人から連絡があったが、

「いや、いらないよ。」と、矢野さんは断った。

なぜなら、近くの若者が、入れ替わり立ち代わり様子を見に来るから。

小さい頃から、声をかけて貰い、いつも励ましてくれていた矢野さんには、

孤独死という言葉は、無縁です。

 

学力がトップの子どもより、ひとの心の痛みがわかる人に育てたいものです。

 

ワトソン先生は、5人兄弟姉妹で育った。

スキーには行ったことはない。

6歳の夏、大好きなスイカの種を蒔いた。

で、毎日、水をやり観察したが、芽が出なかった。

それでも、母親は、馬鹿にせずに、頑張りを褒めた。

挑戦することの大事さを教えてくれた母親だった。

頑張った分、決して無駄ではなく、その体験は何かになる。

 

ある日、学校から帰ったらよい香り。

「お客さんは誰?」と聞くと、「おかあさんには一番大事な人が来る。」 とのこと。

誰が一番大事な人なのか?と、思って待っていた。

その一番大事な人はぼくだったのです。その日はぼくの誕生日だった!

自分の子どもが生まれた日を思い出してください。どんな気持ち?

「愛している!」「ありがとう!」「この子のためならば何でもしてあげたい。」

「わが子が命が助かるならば、今死んでも良い。」

 

幼児期はケンカばかり。小学校は、勉強が思うように行かない。

中学時代は、部活をサボっていた。高校生は、言葉が悪くなる時代。

 

子どもがいるからこそ「先生」です。

こどもがいるからこそ「楽しい集い」が出来る。

すごい力や可能性を持っている子ども達。

 

この国が「人が人を愛する国なるように」と願い、

子ども達の幸せに尽力されるワトソン先生でした。

遠路はるばる運転して来られました。お疲れ様です!

あたたかいご講演、本当に有難うございました。


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