石川の観光スポットレポート (No.1063)
◇歴史の道「臼が峰往来」を行く!②
6月17日(土)石川県ウオーキング協会は第26回「石川県スポーツレクリエーション交流大会」歴史の道「臼が峰往来」を行くを宝達志水市志雄運動公園発着に参加した。
■写真は歴史の道100選碑
○大伴家持(おおとものやかもち)
大伴 家持(養老2年(718)頃~ 延暦4年(785)は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。
万葉集の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。
■写真は大伴家持「三十六歌仙額」(インターネットより)
天平18年(746)3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となり、同年6月には越中守に任じられ、8月に着任してから天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間越中国に在任した。
■写真は大伴家持像(高岡駅前 インターネットより)
○当時の国府(天平20年(748))
当時、越中の国府は、現高岡市伏木にあった。JR氷見線の伏木駅からまっすぐに続く坂を登り切ったところが、浄土真宗勝興寺である。本堂の裏側に国府跡の碑があり、碑の裏には、家持の歌が刻んである。
注)当時能登は越中国で、加賀は越前国。加賀国は823年に独立した。
「あしびきの 山の木ぬれの ほよ採りて
かざしつらくは 千年寿ぐとぞ」
■写真は当時の北陸の変遷
■写真は臼が峰親鸞聖人銅像(2010.4.11)
■写真は臼が峰大伴家持歌碑(2010.4.11)
■写真は臼が峰を出発する参加者
■写真は女阪を下る参加者
■写真は下石から運動公園に向かう参加者
■写真は臼が峰往来道地図
臼が峰往来地図(宝達志水町HP)
(完)