植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

歴史の道「臼が峰往来」を行く!②

2017-07-20 04:24:55 | 日記


石川の観光スポットレポート (No.1063)

◇歴史の道「臼が峰往来」を行く!②

 6月17日(土)石川県ウオーキング協会は第26回「石川県スポーツレクリエーション交流大会」歴史の道「臼が峰往来」を行くを宝達志水市志雄運動公園発着に参加した。

■写真は歴史の道100選碑



○大伴家持(おおとものやかもち)

 大伴 家持(養老2年(718)頃~ 延暦4年(785)は、奈良時代の貴族・歌人。大納言・大伴旅人の子。官位は従三位・中納言。三十六歌仙の一人。小倉百人一首では中納言家持。
 万葉集の編纂に関わる歌人として取り上げられることが多いが、大伴氏は大和朝廷以来の武門の家であり、祖父・安麻呂、父・旅人と同じく律令制下の高級官吏として歴史に名を残す。天平の政争を生き延び、延暦年間には中納言まで昇った。

■写真は大伴家持「三十六歌仙額」(インターネットより)



天平18年(746)3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となり、同年6月には越中守に任じられ、8月に着任してから天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間越中国に在任した。

■写真は大伴家持像(高岡駅前 インターネットより)



○当時の国府(天平20年(748))

当時、越中の国府は、現高岡市伏木にあった。JR氷見線の伏木駅からまっすぐに続く坂を登り切ったところが、浄土真宗勝興寺である。本堂の裏側に国府跡の碑があり、碑の裏には、家持の歌が刻んである。

注)当時能登は越中国で、加賀は越前国。加賀国は823年に独立した。

「あしびきの 山の木ぬれの ほよ採りて
        かざしつらくは 千年寿ぐとぞ」

■写真は当時の北陸の変遷



■写真は臼が峰親鸞聖人銅像(2010.4.11)



■写真は臼が峰大伴家持歌碑(2010.4.11)



■写真は臼が峰を出発する参加者



■写真は女阪を下る参加者



■写真は下石から運動公園に向かう参加者



■写真は臼が峰往来道地図

臼が峰往来地図(宝達志水町HP)

(完)