かねうりきちじの横浜・喫茶店めぐり

珈琲歴四十年の中の人が、珈琲豆荷揚げ量日本一を誇る横浜港のある町の喫茶店でタンザニア産コーヒーを飲み歩きます

古老の記憶を記録する

2009年11月10日 | 旧ブログ記事(長者ヶ原廃寺跡・衣川関係)
 ここ数日、「現地説明会の時の冷え込みは何だったの?」といいたくなるような気温が続いています。今朝の最低気温は平年より10度ほど高かったようです。

 昨日、今日と先日の体験事業では未完成だった築地塀を完成させるべく、発掘調査の合間を見て作業をしています。2日間で15cmぐらい土を積み上げました。完成までにはもうしばらくかかりそうです。

 今日は、現場を終えた後、長者ヶ原廃寺跡がある衣川の教育委員会の方々と打ち合わせをししました(kaneurikichijiは市長部局に所属)。タイトルは、その時出た話題のひとつです。

 今年3月に長者ヶ原廃寺跡を歴史公園として整備するために「長者ヶ原廃寺跡整備基本計画」を策定していますが、そこでは「地名・伝承・記憶の集成と分析」を研究計画の中に位置付けています。

 どのようなことかというと次のようなことを考えています。
 例えば、長者ヶ原廃寺跡という遺跡名は小字名をもとにしているわけではなく(小字名は田中西)、遺跡周辺の人たちが遺跡一帯を「ちょうじゃっぱら(長者原)」と呼んでいたことにちなんでいます。また、江戸時代に編纂された仙台藩の地誌『奥羽観蹟聞老志』にはこの遺跡のことを金売り吉次の屋敷跡だという地元の伝承を記録しています。
 ※現在でもお年寄りの方には「長者ヶ原廃寺跡を発掘しています」というよりは、「吉次屋敷を発掘しています」と
  自己紹介した方が「あ~、あそこを掘ってるんだ」とすぐ分かってもらえるように、吉次屋敷伝承は今でも生きているのです。

 長者原という地名と長者ヶ原廃寺跡を金売り吉次の屋敷跡だという伝承がどちらが先に生まれたのか、詳しく調べていないので何とも言えませんが、両者は無関係にそれぞれ成立して今日まで伝えられてきたわけではないと思います。こうした地名や伝承をきちんと分析することも、長者ヶ原廃寺跡の歴史を考える上で非常に重要な作業だと考え、整備基本計画に盛り込んだわけです。

 こうした経緯があったのと、教育委員会でも地域の古老の記憶を何とか次世代に継承できないという思いから、打ち合わせで何となしに話題に出たわけです。

 遺跡は大地に刻まれた歴史と言えますが、歴史は大地や紙や木・石に記された文字だけに刻まれているわけではありません。特に地域の歴史は、そこに生きた人々の記憶に刻まれ、それを継承した伝承の中にも息づいていると考えています。

 いつか、衣川の教育委員会と一緒に「古老の記憶を記録する」作業を進めたいと考えています。