今日は、私の父のこと、父にまつわる想い出話をいくつかお話しさせていただきますね。
何故、それを思い立ったかといいますと、
大学時代の親友のことを記事にした際、その当時のアルバムを、久しぶりに紐解き、私と父のツーショット写真を目にしたからです。
母のことは折に触れ、話してきましたが、父の事はほとんど話題にしませんでしたから。
私の父は、関東出身の人でしたが、ある偶然から、広島勤務となりました。
電力会社に勤めていました。
原発問題以来、渦中で苦労が多い会社ですね~
父が生きていたら、どんな感想を述べたことでしょう。
本社から転勤が発令され、広島に勤務している時に、NTTのような分割が起き、広島支社が中国電力になりました。
それが理由で、父はそのまま中国電力勤務の社員になった、と聞いています。
うろ覚えですので、事実と多少違うところがあるかもしれません。
そして父は、やはり関東在住で遠縁だった母をめとり、その後、家族が被爆という運命をたどることになります。
私は一歳でした。
被爆した当日、父は、九死に一生を得るような幸運に恵まれました。
前日出張だったため、出勤を30分遅らせてよかったからです。
まともな時間に出かけていれば、私は父なし子になっていたに違いありません。
その幸運をものともせず、被爆当日、爆心地から1キロ弱のところにある会社に、その様子を見に赴いた父。
焦土と化した街中を黒い雨に打たれながら、帰宅した父。
それにもかかわらず、81歳という天寿を全うすことができました。
父と母が存命の頃、私は両親の性格は正反対だと思っていましたが・・・・・・
今思うと、似たところも多々あり、その共通点で一番思い出すのは、凛とした佇まいでしょうか。
ところが父は、酔うと形無しで、少々不機嫌になりましたけれどね。
その印象は強いものがありますが、そのお相手は娘時代、いつも私。
何故か、私が相手をすると、上機嫌になる父でした。
日頃は、大学教授のような厳格な雰囲気で、その父に声をかけるとき、私の声色は変わってしまうほど。
丁寧な口調で話をしたものです。
雰囲気通りに、いつも書斎にこもり、読書をしたり勉強に励んでいた父。
六畳の北向きの書斎と共に、その父の後姿も忘れられません。
また一方、なかなかのスタイリストでもあったお父さま。
勤め人のころは、背広の胸には白いハンカチをのぞかせ、一時香水も愛用していました。
それにしては、眼鏡がずいぶんお粗末だった、といった変な記憶が私にはあります。(笑)
スタイリストの父は何事も形からマスターするようなところがあり、研究熱心も手伝って、スポーツをする姿は実に様になっていました。
小学生の時、先生と父兄のソフトボール対抗戦があった時のこと。
父の活躍と格好良いプレーに、私は内心嬉しくて、得意になったものです。
研究熱心で努力家の父のエピソードは、他にも幾つかあります。
立場上、人前でよく挨拶をすることも多かった時期の頃。
父は、その前に念入りな準備をし、練習までしていました。
我が家の今の花壇の光景。
退職後は、明けて暮れるまで、庭作業を趣味にして愉しんでいた父でした。
会社全体の家族会のような催しが、市民ホールのようなところで、芸能人なども招き、盛大に催されたことがありました。
その時、父が締めの挨拶をしたのですが、その前、練習に励み、自分の挨拶を録音テープに吹き込んだり、家族に聞かせたりと。
「喜びも悲しみも幾年月」の映画が話題になっていた頃のことです。
その映画の内容を一部取り上げ、父らしいなかなか味のある挨拶だった、と記憶しています。
ところがその挨拶は、余興後の余韻漂うにぎやかなホールの騒々しさにかき消され、よく聞こえませんでした。
一生懸命練習し準備した父が、私は何だかとても可哀想に・・・・・・
またある時は、バーナードショーの語録を引用した挨拶を、新聞記者に褒められた、と得意になって話したりと・・・・・・
今この記事を綴りながら、久しぶりに思い出しました。
中年過ぎてからは、一時期ゴルフに夢中になり、庭にネットを張り、早朝よく練習をしていた姿も忘れられません。
これから掲載する二枚の写真は、電力会社の取引先の接待を受け、宿泊したホテルで撮ってもらったものです。
なぜか、大学一年生の私も招かれました。
翌日、ゴルフ場を一緒に回った思い出と、前日のディナーの優雅な雰囲気を所々ですが、今も鮮明に覚えています。
父のゴルフのプレー姿が、ご一緒した三名の方達の中で、一番美しかったことも。
スポーツ万能だった父は、大学時代はテニス部の主将もしていました。
その母校の界隈を、父に案内してもらいながら、二人で散策したことがありました。
私が、京都の大学に在学している時のことです。
吉田山のふもとの住宅地を指して、「あのあたりに大学生の頃、下宿していた」と教えてくれたものです。
帰り際に、四条の交差点のデパートで、豪華な刺しゅう入りのアンサンブルのセーターを買ってもらい、その後大切に愛用しました。
その後の私の人生で、父との一番良き想い出になりました。
退職後は、園芸一筋で、朝から日が暮れるまで、庭に出て作業をしていた父。
庭の植え付けセンスはまるでないガーデナーさんでしたが、研究熱心で勉強家の父の庭仕事は、本格的。
朝顔の盆栽仕立て、菊の懸垂仕立ては見事で、今も強く心に残っています。
夏の朝、お茶の間に入ると、棚の上に置かれた清々しい幾輪もの朝顔が、いつも私たちを迎えてくれたものです。
「父は作る人、母は見る人」と私達はよく言っていました。
園芸は退職後の趣味でしたが、私の旦那さまと違い、なかなか器用だった父。
まだ戦後の物が豊かとはいえなかった時代、「暮らしの手帳」を愛読し、日曜大工を愉しんでいました。
その頃にしては斬新な型の棚類や、その他の日用品を、父が完成する過程を、子供心にわくわくした気持ちで見つめたものです。
台風の予報があると、家の周りをくまなく点検し、その備えのために朝から日が暮れるまで働いてもいた父
ですから幼い頃、台風を怖いと思ったことは、私は一度もありませんでしたね。
父が必ず守ってくれる、と信じ切っていましたから。
父が庭作業時にかぶっていた麦わら帽子。
後で心を込めて撮り直し、もう少し雰囲気を出しましょう。
今思い出すと、父の良い面ばかりが浮かんできます。
想い出とはそういうものですね~
この記事を書いて良かった!
父が草葉の陰で、喜んでくれているに違いありません。
親不孝の多少の償いになったかしら。(笑)
今日は、いよいよ選挙投票日。
父は、棄権はしなかったでしょうけれど。
夫の介護に日々追われる私は、選挙投票場に赴くことを、少々億劫に感じています。
どうしましょう・・・・・・・。
ご覧下さいまして有難うございました。
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花のように泉のように
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